05/14の日記
17:47
【宮沢賢治】外山の夜―――同性へのセレナーデ(1)
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花巻市、台温泉川
こんばんは (º.-)☆ノ
【1】ナイト・ハイクから生まれたセレナーデ
セレナーデ
巨なるどろの根もとに
水をけてうちはねたるは
式古き水きねにこそ
きみしたひこゝにきたれば
草の毛や春の雲さび
月の面をかすめて過ぎつ
おぼろにも鈴の鳴れるは
その家の右袖にして
まどろめる馬の胸らし
廐肥の束七十ばかり
月しろに並べ干されぬ
をちこちに鈴のさまして
かすかにも啼く鳥あるは
保護色と云はゞ云ふべし
きねはまた月のかけらを
ぼそぼそに落してあがり
鈴の音やゝ明らけし
宮沢賢治のこの詩は、古めかしい文語で書かれていますが、「セレナーデ」という題があり、じっさい「セレナーデ(小夜曲)」というにふさわしいロマンチックなふんいきをもっています。
しかし、詩の舞台は山奥の森の中、素朴な「水きね」の小屋、馬を飼う農家など、土の香りがぷんぷんする泥臭い舞台装置に、ふしぎと清らかな愛らしさが漂っています。
じつは、この文語詩は、もともと盛岡近郊の野山でナイト・ハイクをしたさいの路傍風景のスケッチ(口語詩)を改作したものなのです。しかも、えんえんと長い推敲改作過程の途中段階のテクストなのですが、じっさいにこうやって掲げてみると、独立した詩篇としても十分に鑑賞に耐える形式と実質を備えていると言えます。
草稿の右肩には:
「〇了
Romanzelo
口語にて
構成」
というメモがあります。「〇了」は、〇の中に「了」字を書いたもの。フォントの関係で、以下このように略記します。
推敲が完了したという印のようですが、くわしくは次節で、成立時期の推定との関係で考察します。
「ロマンツェロ(romancero)」は、スペインの物語詩(ロマンセ:フォーク・バラードの一種で、節をつけて唄う語りもの)を集めた詩集のこと(⇒:Wiki[eng]:romancero)。また、これに倣ったハインリヒ・ハイネのドイツ語詩集の題名(こちらの綴字は Romanzero)(⇒:Wiki[ger]:Romanzero)。いずれにしろ賢治の綴字↑は誤っています。
スペインの「ロマンツェロ」はもちろん、ハイネの詩集も、伝説的な内容の詩を多く収録しています。賢治は、この詩を文語化するにあたって、伝説的な内容を盛りこんでゆくことを考えていたのでしょうか? また、どうして「ロマンツェロ」と書いたあとで、また消しているのでしょうか? この点は、のちほど検討します。
「口語にて/構成」と書いているのは、少なくともこの「セレナーデ」の内容ならば、文語よりも口語のままのほうが合っていると思ったのかもしれません。
改作のもとになった口語詩は、『春と修羅・第2集』収録の #69〔どろの木の根もとで〕1924.4.19.です。これは、『第1集』発行日にあたる 1924年4月20日に、盛岡市郊外の「外山(そでやま)」で開催された「種馬品評会」を見学するために、その前夜、盛岡市内から徒歩で「外山」へ向かった道中スケッチの1篇です。
〔どろの木の根もとで〕は、のちに文語詩に改められ、最終的には、『文語詩稿五十篇』収録の〔月のほのほをかたむけて〕〔定稿〕となります。しかし、いまここで取り上げている「セレナーデ」は、文語詩化・第一段階の草稿で、〔月のほのほをかたむけて〕の〔下書稿(一)〕に相当します。
『春と修羅・第2集』『第3集』の口語詩には、のちに文語詩への改作の過程をたどったものが多く、多かれ少なかれ積み重なった推敲逐次形の系列をなしています。しかし、いずれの草稿系列でも、口語詩から文語詩に変わるいわば狭間の遷移的な形が、とりわけ印象深く感じられます。内容と題材において注目すべきものが多いのは、この中間的フェイズなのです。
詩人としての生涯をまっとうすることなく、生涯の中途で、多数の未完草稿を残して没した宮沢賢治の場合には、逐次草稿の中途の形を、独立した作品として鑑賞することも、最終形に劣らず意味のあることだと思います。
というのは、賢治の場合、「定稿」とは、あくまでもその時点における「定稿」にずぎません。どの「定稿」も、最終的なものではないのです。賢治は、亡くなる約ひと月前に2束の定稿『文語詩稿』を編んだ後、早くもそれらの収録作品の推敲・改訂を始めているほどです。
したがって、逆にとらえれば、「定稿」形のみならず、すべての逐次形が、独立した作品として読まれるに価する―――と考えてよいのです。
【2】 テクストの成立時期
この「セレナーデ」という題名をもつ〔下書稿(一)〕は、《黄罫(22/0行)詩稿用紙》に書かれています。
《黄罫詩稿用紙》は、賢治が自分で謄写印刷して作った用紙です。賢治詩の長い詩行を、折り返さずに一行の中に収めることのできる用紙は、当時市販されていなかったので、自分で作成したのでしょう。栗原敦、杉浦静両氏の研究によれば、《黄罫詩稿用紙》は、口語詩から文語詩への改作にあたって主要に用いられており、用紙の使用時期は、1929年〜1932年ころ、うち文語詩への改作に用いられたのは、おおよそ 1931年前後からそれ以後とされます。
「『文語詩』のための詩稿用紙は (a) 定稿用紙 (b) 赤罫詩稿用紙 (c) 黄罫詩稿用紙 (d) 無罫詩稿用紙であり、〔…〕基本的には〔ギトン注――1933年夏に最終段階の清書に用いられた(a)定稿用紙を別にすれば〕(c) と (d) が草稿用紙の中心となり、中でも (c)黄罫詩稿用紙が大部分である。」
栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,1992,新宿書房,pp.386-387.
文語詩への改作が行なわれたのは、もとの草稿の種類でいうと、『歌稿』『春と修羅(第2,3集分)』『詩ノート』『冬のスケッチ』などがありますが、これらのうち、『冬のスケッチ』からの改作以外は、大部分が、《黄罫詩稿用紙》のうち22行罫のもの(《黄罫22系》と略称)に書き写されて改作されています(原紙葉上で文語詩化されてから書き写されたものと、原紙葉は口語詩形で、書き写された際に文語詩化されているものとが、数で相半ばします。杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,1993,蒼丘書林,p.238)。
杉浦氏によれば、『春と修羅・第2集』から《黄罫22系》による文語詩化が行なわれた時期は、1931年以後と推定されます(同、p.241)。これは、詩稿の用紙と生前発表時期との関係を分析した結果の推論です。
また、『詩ノート』の口語詩から文語詩への改作過程を追ってゆくと、《黄罫24系》または《黄罫26系》で文語詩化されたあと、《黄罫22系》に移されて、さらに推敲が重ねられています(同,p.244)。したがって、《黄罫詩稿用紙》のなかで、《22系》は、《24系》《26系》よりも後の時期に用いられているのです。それぞれの時期は:
「黄罫24系が昭和5年秋頃、黄罫26系がほぼ1年後の昭和6年秋頃、黄罫22系が昭和6年〔1931年――ギトン注〕を中心としてその前後と、おおよその使用時期を推定できそうである〔…〕
〈文語詩〉のなかで改作ではなく新たに稿を起こされたものは〈文語詩〉総数の約半数であるが、その 85% のものが第一稿に黄罫26系・黄罫22系・無罫詩稿用紙を用いているのであり、その使用時期は無罫用紙を除けば昭和6年〔1931年――ギトン注〕をさかのぼることはむずかしい〔…〕」
杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,1993,蒼丘書林,pp.245-246.
杉浦氏の推論のうち《黄罫26系》については疑問がありますが、「セレナーデ」の成立時期には関わらないので、ここでは触れません。すなわち、これらの考察から、《黄罫22系》の使用は 1931年以後と推定されるのです。
なお、時期が判明しやすい書簡への使用を見ますと、《黄罫詩稿用紙》のなかで《22系》が使用される時期は遅くて、1931年1月9日付の2通(書簡番号[292][293])が最初で、2通とも《22/0行》です。その後3月初めまでに5ないし6通が《黄罫(22/0行)》で出され、3月中に1ないし2通が《黄罫(22/22行)》で出されています。その後、《黄罫》は書簡に使用されなくなるようで、8月以後に書簡の下書に使われたのが散見されるほかは、1932年8月[426]、1933年5月[473]があるだけです。
すなわち、書簡でも、《黄罫22系》の使用は 1931年以後であり、とりわけその最初の時期に集中していることがわかります。
さらに、この「セレナーデ」の草稿―――〔月のほのほをかたむけて〕〔下書稿(一)〕には、時期推定の重要な手がかりが残されています。
草稿の右肩にある:
「〇了
Romanzelo
口語にて
構成」
というメモですが、「〇了」は、推敲が完了したという印のようです。
のちほど説明しますが、この〔下書稿(一)〕には、2種類の筆記具による加除がなされています。つまり、2段階の「手入れ」が施されているわけです。↑前節の最初に掲げたのは、「手入れ」前のテクストです。
「〇了」の印は、「手入れ」後の形に対して付されたと考えるのが自然でしょう。もっとも、2段階の「手入れ」のうち、後のほうの「手入れA」は、転写されて「下書稿(二)」となる直前のものです。したがって、「手入れA」は、すでに推敲完了とみなしていたテクストに対して、一定期間後に新たな方針のもとに加えられた可能性があります。つまり、「〇了」の後で、改めて再開された推敲かもしれません。これに対し、第1段の「手入れ@」は、「〇了」より前の可能性が高いと言えます。
「〇了」印について、栗原敦氏の研究によると:
「『五十篇』『一百篇』と『未定稿』全般に共通して見られるのは〇了の印であり、前二者にはそれに加えて同じく〇写の印がある。
〔…〕
次に〇了だが、この印の存在は、定稿用紙〔への――ギトン注〕清書以前のある時点で、一旦推敲を完了したと見なすことがあったことを窺わせる。
〔…〕
要するに、黄罫詩稿用紙を中心としつつも、各種詩稿用紙を用いたそれぞれの『文語詩』下書稿のある推敲段階で〇了と記しうるものを一旦整えた。〔…〕黄罫詩稿用紙の中でも二十二行片面用紙〔《黄罫(22/0行)》――ギトン注〕を使っての推敲は、〇了を整える頃も、またその後も比較的まとまって行われていた。やがて、昭和8年のある時〔清六氏によれば6月ころ――ギトン注〕決意して、改めて清書を試みるつもりで弟清六に頼んで作らせた用紙〔清六氏が印刷所に発注した (a)定稿用紙――ギトン注〕に『五十篇』と『一百篇』を、おそらく最後の推敲を加えつつ定稿として清書した。その際、清書済みの下書稿には確認の意味で〇写の印をつけた。」
栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,1992,新宿書房,pp.387-388.
すなわち、
@主に《黄罫詩稿用紙》を用いて文語詩化 → A推敲完了したものに「〇了」印を付す → Bさらに整理・改作を決意し開始 → C1932年8月〜11月に一部を雑誌発表 → D1933年6〜8月に《定稿用紙》に清書し、『文語詩稿五十篇』と『一百篇』に分け、完成とみなしたものに「〇写」印を付す。
という文語詩化・改稿の過程が推定されるのです(栗原, p.400)。
ちなみに、Bに関しては、1932年1月以後に、『短歌文法70講』『俳句文法60講』『漢詩入門』という参考書を、東京・京橋の「立命館大学出版部」から取り寄せて、文語文法や古典詩定型の勉強をし直したことが判明しています(栗原,pp.392-398)。これらによって、文語詩の基礎知識をブラッシュ・アップしたうえで、いったん「〇了」印を付したものも改めて推敲し、『文語詩稿』の仕上げにかかったと見られるわけです。
そうすると、1932年の遅くとも半ばには、Bの作業が開始されたと考えなくてはなりません。というのは、『漢詩入門』等については、それらの入手を検討するメモが、1931年9月の東京行きまでに使われていた『兄妹像手帳』p.200に、すでに記されています。したがって、これらの参考書は、遅くとも病状が恢復した 1932年初めには、取り寄せて読んだと考えられるのです。なお、3冊のうち『俳句文法60講』は 1932年1月発行ですから、1931年中にBの作業が開始されることも、やはりありえないでしょう。
そういうわけで、Bの作業は、1932年初め、ないし遅くとも同年半ばには開始された。これに相応して、Aの「〇了」印の推敲時期の下限が推定できます。すなわち、「〇了」の推敲は、1932年初めより以前と推定されることになります。Aを終えた(ないしやめた)あと、Bが開始されたと考えられます。推敲過程が上のように推定されるのであれば、ABが同時に並行して行われることは、考えにくいです。
以上から、いま問題にしている「セレナーデ」、すなわち〔月のほのほをかたむけて〕〔下書稿(一)〕およびその「手入れ」形の成立は、1931年から 32年初めまでのあいだ―――と推定されることになります。
ところで、《黄罫詩稿用紙》のうち《(22/0行)》、つまり紙の片面だけに罫の印刷があって、22行罫であるもの――「セレナーデ」と同じ用紙――に書き起こされた文語詩のなかには、その内容から時期を確実に推論できるものがあります。
それは、『文語詩未定稿』中の〔ひとひははかなくことばをくだし〕です:
「〔…〕
あしたはいづちの組合にても
一車を送らんすべなきやなど
〔…〕
山なみへだてしかしこの峡に
なほかもモートルとゞろにひゞき
はがねのもろ歯の石噛むま下
そこにてひとびとあしたのごとく
そこにてひとびとまひるのごとく
けじろき石粉にうちまみれつゝ
シャブロや叺やうち守るらんを
あゝげに恥なく生きんはいつぞ
あしたはいづこの店にも行きて
一車をすゝめんすべなどおもひ
〔…〕」
『文語詩未定稿』〔ひとひははかなくことばをくだし〕〔下書稿(二)〕
とあって、これは、1931年3月〜8月に『東北砕石工場』の技師として、東北の各地を回って「石灰岩抹」のセールスをしていた当時の詩であることが明らかです(佐藤通雅『東北砕石工場技師論』,2000,洋々社,pp.128-164)。「一車」とは、貨車1台分の「岩抹」製品ということです。
「山なみへだてしかしこの峡に」以下は、『砕石工場』での作業のようす(↑写真参照)を書いています。「モートル……はがねのもろ歯」は削岩機、「シャブロ」はスコップ、「叺(かます)」は、砕いた岩礫を入れる藁莚の袋。
『東北砕石工場』のセールスに携行した『王冠印手帳』に書き下ろされた初稿〔下書稿(一)〕に、推敲を施したあと、この《黄罫(22/0行)》に清書しています(〔下書稿(二)〕)。
そうすると、《黄罫(22/0行)詩稿用紙》が、文語詩の清書に用いられたのは、このセールス勤務のあいだのある時期だったであろうと推定できます。
さきほど述べたように、書簡への使用は 1931年1〜3月に集中していました。前年暮れか年初に、新しい 22行罫の詩稿用紙を刷り上げ、とりあえずは書簡などに用い、3月以後に本格的に詩稿の整理(文語詩化と、新たな文語詩稿の書下ろし)をはじめたので、書簡への流用はなくなったのではないでしょうか。
もっとも、その後、同年9月には、セールス途上の東京で発病し、帰郷後 27年初めまでは病床に伏していましたから、その間は、推敲作業が中断したでしょう。そうすると、推敲が一応完了して「〇了」印が付されるのは翌27年に入ってから、という作品もあったかもしれません。
そういうわけで、「セレナーデ」の成立年代は、1931年3月〜8月の『東北砕石工場』勤務時期のあいだ、……ただし、推敲が完了して「〇了」印を付された時期は、翌32年初めころまで下がりうる……ということになります。
【3】 ざっと鑑賞する
セレナーデ
巨なるどろの根もとに
水をけてうちはねたるは
式古き水きねにこそ
きみしたひこゝにきたれば
草の毛や春の雲さび
月の面をかすめて過ぎつ
おぼろにも鈴の鳴れるは
その家の右袖にして
まどろめる馬の胸らし
廐肥の束七十ばかり
月しろに並べ干されぬ
をちこちに鈴のさまして
かすかにも啼く鳥あるは
保護色と云はゞ云ふべし
きねはまた月のかけらを
ぼそぼそに落してあがり
鈴の音やゝ明らけし
『文語詩稿五十篇』〔月のほのほをかたむけて〕〔下書稿(一)〕
ざっと読んでみますと:
夜の山路を歩いて来て、「どろ」の木の「根もと」に、「水きね」が動いているのを見た。同時に、「鈴の音」が聞こえる。それは、南部式の“曲がり家(や)”の中で寝ている馬の首につけられた鈴らしい。“曲がり家”のそばには、わずかな山間の畑に入れるためであろう「廐肥」も干されている。森の中の鳥にも「鈴」のような「さま」をして啼くものがあり、「水きね」は月光に煌めく水を落として動いている。
「水をけて」は、水を受けてという意味。「をけて」は、「うけて」の方言、ないし方言的に訛った賢治流の標準語です。
「をちこちに」も同様で、標準語の「あちこちに」に相当します。
「ドロノキ」は、ヤマナラシなどとともに「楊(やなぎ)」の仲間の樹木。「ヤナギ」には、葉が細くて枝がしだれる「柳」と、円形に近い葉で、枝は直立する「楊」の2種類があり、もともと中国では字を書き分けていました。賢治詩に登場する「やなぎ」の多くは、直立するほうの「楊」です。
東京や西日本の人がイメージする「やなぎ」は、もっぱらシダレヤナギですが、賢治の「やなぎ」イメージが「楊」を中心としているのは、北日本で育ったからでしょう。東北の山野に自生するのは、もっぱらドロノキ、ヤマナラシなどの「楊」ですし、東北と同じ緯度の朝鮮・華北方面では、道の並木として植栽されるヤナギも、直立する「楊」がほとんどです。
「水きね」は、樹幹をえぐって大きなスプーンの形にしたもので流水を受け、支点の反対側で脱穀などをする装置。水車の原始的なものです。「式古き水きね」とありますが、この大正時代には東北でも、すでに水車がふつうで、「水きね」による脱穀は、旧式のものとなっていました。こんな山奥の農家だから、「水きね」で脱穀をしているのです。
字下げされた
きみしたひこゝにきたれば
草の毛や春の雲さび
月の面をかすめて過ぎつ
の部分が、題名の「セレナーデ」の意味を明らかにします。
「セレナーデ」とは、
「夕べに、恋人の窓下で歌い奏でられる音楽。オペラのアリアや演奏会用歌曲にも取り入れられた。」
つまり、この「水きね」や馬飼育農家のスケッチは、もともとはナイト・ハイクの一情景だったのですが、この逐次形では、それを、寝静まった「恋人」の家の窓辺に来て歌う「セレナーデ」に改作しているわけです。
しかし、その「恋人」の家が、山奥の一軒家の農家だという設定は、いかにも奇妙に思われます。「恋人」たるべき妙齢の女性が、単身山奥の開拓農家を切り回して、馬を飼ったり、厩肥を干したり、原始的な「水きね」で脱穀をしたりしている‥‥などということがありうるのか?! かといって、この農家のおかみさんだとしたら、「不倫セレナーデ」‥‥宮沢賢治のストイックなイメージがぶち壊しでしょうw
「セレナーデ」を向ける先が、男性、つまりこの農家のあるじだとすれば、この問題は解決します。つまり、この「セレナーデ」は、同性の「恋人」に向けられていると考えればよいのです。単身山に入って隠棲した同性の「恋人」をしたって、追いかけて行くという設定ならば、十分に成り立ちます。
しかも、作者賢治の生活史には、そう考えてよい根拠があります:
「〔冒頭欠〕たいエゴイストだ。たゞ神のみ名によるエゴイストだと、君はもう一遍、云って呉れ。さうでなくてさへ、俺の胸は裂けやうとする。
純黒 俺の胸も裂けやうとする。おゝ。町はづれのたそがれの家で、顔のまっ赤な女が、一人で、せわしく飯をかき込んだ。それから、水色の汽車の窓の所で、瘠せた旅人が、青白い苹果にパクと噛みついた。俺は一人になる。君は此処から行かないで呉れ。
蒼冷 ありがたう。判った。判ってゐるよ。けれども俺は快楽主義者だ。冷たい朝の空気製のビールを考へてゐる。枯草を詰めた木沓のダンスを懐かしく思ふのだ。
純黒 俺だって、それは、君に劣らない。あの融け残った、霧の中の青い後光を有った栗の木や、明方の雲に冷たく熟れた木莓や。〔…〕
蒼冷 いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山地のうちだ。俺は只一人で其処に畑を開かうと思ふ。
純黒 彼処は俺は知ってるよ。目に見えるやうだ。そんならもう明日から君はあの湿った腐植土や、みゝづや、鷹やらが友達だ。白樺の薄皮が、隣りの牧夫によって戯むれに剥がれた時、君はその緑色の冷たい靱皮の上に、繃帯をしてやるだらう。あゝ俺は行きたいんだぞ。君と一諸に行きたいんだぞ。
蒼冷 俺等の心は、一諸に出会はう 俺は畑を耕し終へたとき、疲れた眼を挙げて、遠い南の土耳古玉(トウクォイス)の天末(てんまつ)を望まう。その時は、君の心はあの蒼びかりの空間を、まっしぐらに飛んで来て呉れ。
純黒 行くとも。晴れた日ばかりではない。重いニッ〔ケ〕ルの雲が、あの高原を、氷河の様に削って進む日、俺の心は、早くも雲や沢山の峯やらを越えて、馬鈴薯を撰り分ける、君の処へ飛んで行く。けれども俺は辛いんだ。若し、僕が、君と同ん〔な〕じ神を戴くならば、同ん〔な〕じ見えな〔以下欠〕」
これは、1921年の在京中に書かれた戯曲の断片です。書かれた経緯についての検討は次回行ないますが、ギトンの推定を先に言ってしまうと、これは、東京で保坂嘉内と再会の約束をしたあとで書かれたものだと思います。
この〔蒼冷と純黒〕については、すでにさまざまに検討されていて、菅原千恵子さんのように、賢治が嘉内との関係を書いたものだとする見解もあります。ギトンもそれに賛成なのですが、他方、「蒼冷」「純黒」いずれも作者賢治の気持であって、東京の“孤独”のなかで、なおも都会にとどまろうとする気持と、故郷の自然のなかで創作意欲を羽ばたかせたい気持ちとが相剋しているのではないか?―――という見方もあります。
「保阪嘉内との関係のみに限定する必要はあるまい。〔…〕
都会の澱の底に沈んで半年余。東京での生活に挫折しかける中、一家を帰正〔日蓮宗に改宗すること――ギトン注〕させずには帰れないという意地がある一方、故郷の自然を反芻して帰心も募っていく。理想と現実の相剋、友との離別、群衆の中の孤独。こうしたもろもろの思いが交錯する蒼黒い心象風景が、二人の登場人物の名前に託されているのではないだろうか。
〔…〕宗教的狂熱が去った時、心に立ち現れてきたものは、明け方の雲に冷たく熟れた木苺や、種山の霧の中で後光を発していた栗の木であった。」
榊昌子『宮沢賢治「初期短篇綴」の世界』,2000,無明舎出版, pp.280-281.
たいへんすぐれた見解だと思います。しかし、この創作に影響を与えた・こうしたさまざまな要素を考慮しつつも、ここはやはり、保阪との再会に臨む時期に書かれたという経緯を踏まえて、保阪との関係を中心に、この戯曲を考えてみたいのです。
菅原さんも、「蒼冷」「純黒」のどちらかが賢治で、どちらかが嘉内だとは言っていません。2人の登場人物いずれも、賢治、嘉内のさまざまな思いを述べており、それらの思いゆえに袂を分かって行かねばならない破局に立ち向かおうとしている、という理解なのだと思います。
たしかに、登場人物双方に、それぞれの信仰や考えが入り込んではいるのですが、あえて分けるとすれば、「純黒」が賢治で、「蒼冷」は、賢治の主観によって理想化された嘉内だと思うのです。というのは、「純黒」のセリフには、賢治がこれまでに書いた短歌や初期作品のモチーフが散りばめられている(詳細は次回述べます)のに対し、「蒼冷」のセリフにはそれがありません。また、「蒼冷」のセリフに、
「たゞ神のみ名によるエゴイストだと、君はもう一遍、云って呉れ。」
とありますが、これは、嘉内の宗教観が賢治ともっとも大きく異なる点、すなわち「神は己れのうちにある。」という思想を指摘しているように思います。
もちろん、保阪嘉内は山梨県の人で、岩手県の「外山」には、特別な愛着はもっていなかったはずです。しかし、「蒼冷」は、
「いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山地のうちだ。俺は只一人で其処に畑を開かうと思ふ。」
と言います。「蒼冷」は、あくまでも理想化された嘉内、賢治の熱い願望を背負って理想化された親友なのです。この過剰な思い入れ、現実の嘉内をはるかに超越した理想を押しつけることも辞さない賢治の熱情が、かえって、再会した二人の仲を難しくしてしまったようにも考えられます。
「蒼冷」の、「いや」という言い方に、注意しましょう。おそらく、賢治の心底の望みは、保阪が郷里の山梨で農業を営むことではなく、賢治の“聖地”というべき北上山地に入って、開拓の鍬をふるうことなのだと思います。まことに身勝手にはちがいありませんが、賢治という人は、いつもそうした過剰な情熱をもち、他人にもそれを求めようとする傾向があった‥‥彼自身、しばしばそれを抑えがたかったのではないでしょうか。
「セレナーデ」と題して改作された口語詩は、もともとは、単なる夜間の山奥のスケッチにすぎませんでした。しかし、膨大な詩稿の整理をするなかで、「外山」にかけた情熱と、この戯曲の習作を思い出し、単身山に入って畑を拓いている「蒼冷」のところへ「純黒」が訪ねてゆく、という往年のモチーフが、脳裏によみがえったのではないか。。。
しかし、詳しい検討は、次回にしたいと思います。
ばいみ〜 ミ彡
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