07/09の日記
16:27
【宮沢賢治】旅程ミステリー:近畿篇(9)
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ミツバツツジ、東海自然歩道・青山附近
こんばんは (º.-)☆ノ
前回からの続きです:⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(8)
【8】 「大津唐崎道」
前回の最後に見たように、弁天堂の鳥居の前に「山中道」の終点があるのですが、
そこにある明治時代(1899年)の標石には、「京道(きょうみち)」とも「山中道」とも書いてなくて、
「この下 ☞ 大津唐崎」
と書いてありました。
そして、弁天堂にある明治時代の「京道」の標石の矢印は、「桜茶屋」方面、つまり「白川道」「一乗寺道」のほうを向いていました。
そこで、明治時代には、すでに「山中道」は、京都に下りる道としては使われなくなっていて、反対方向の琵琶湖岸への下山道としてもっぱら使われていたのではないか――ということが推定されたのでした。
それでは、大津・唐崎へは、「山中道」の途中から、どんな経路で下りて行ったのでしょうか?
『1000年の道』によると、「鳥居の柱」の先(麓側)で、2本の「大津道」ないし「唐崎道」が分岐しています:
地図:大津道と京道
2本のうち、西側の道(『1000年の道』によれば、「唐崎道2」)を、まず踏査してみます。
「山中道」との分岐点は、「鳥居の柱」のすぐ西にあります。東海自然歩道は、「夢見ヶ丘」のほうから来て、ここで「唐崎道2」のほうへ下って、大津に達するのです。自然歩道として整備されているので、現在でもたいへん歩きやすい道です。
金仙の滝
途中に小さな滝もあります。そこから麓にかけて、沿道にさまざまな遺跡が現れるので、たいくつしませんw
「崇福寺跡」の案内板
古いですね。奈良に平城京ができるより前です。もちろん、京都よりも古いw
この路は、そのくらい昔からあったのかもしれません。。。
石造阿弥陀如来坐像「志賀の大仏」
比叡山特産の花崗岩に彫刻されています。
室町時代の作だそうです。
路傍の摩崖仏
沿道の竹林の中に摩崖仏がありました。
名前も説明もなく、いつの時代なのかも不明ですが
見るからに古そうです。よく見ると、赤ん坊を
抱いているようです。子安観音??
「百穴古墳群」 古墳時代後期
このような横穴式石室の古墳が
たくさん集まっています。
渡来人系のようです。
「唐崎道1」には、標石の類は見られませんでしたが、これだけたくさんの遺跡が沿道にあることからして、古くからの道であることは間違えなさそうです。
山中町からの「志賀越え」の峠路と合わさって、唐崎・大津へ向かいます。
ふもとに下りてきました。正面に琵琶湖が見えます。
後ろを振り返って見ます。
路は楽でしたが、けわしい斜面です。
つぎは、「唐崎道1」をたどってみます。こちらは現在では人があまり歩かないので、途中で路が消えている部分もありますが、ずっと谷底を歩いていればよいので、迷う心配はありません。
「鳥居の柱」のところのY字路で「山中道」と別れて少し東へ歩くと(↑上の地図参照)、「浄刹結界趾」と彫られた石柱があります↓
「浄刹結界趾」は、延暦寺の聖域の範囲を示す境界標で、横川の定光院の下や、雲母坂にもあります。
「浄刹結界趾
(裏面)大正十年三月建之」
偶然ですが、宮沢父子が来たのは「大正十年」の4月初めです。しかし、父子がここを通った可能性は無いでしょう。
「浄刹結界趾」の先で、下へ降りる「唐崎道1」が分岐します。まっすぐに尾根を行けば、壺笠山に至ります。
「唐崎道1」に沿って、水の流れない沢筋を下りて行くと、途中に「丁石」があります↓
「十五丁 宗□町/川久」
「川久」は、施主の屋号でしょう。
琵琶湖が見えてきました。
大通寺の墓地を通り抜けます。
「大辨財天道」の標石があります。
「無動寺 大辨財天道
(左側面)(指さす手) 是より三拾六町
(裏面)施主 大津(……)/膳所(……)/石山(……)
(右側面)明治三十三年七月建之 石工 大津/石徳」
弁天堂の鳥居の前にあった「この下 ☞ 大津唐崎」の碑の翌年 1890年の建立です。この頃に、かつての京道「山中道」参道の一部を利用して、「大津唐崎道」が整備されたことがわかります。
大通寺 山門
大通寺の門前にも、標石と「丁石」があります。
「(指さす手) 無動寺辨天道
(裏面)明治三十七年九月建之」
「卅五丁」
この「丁石」は、ここから弁天堂までの距離を表示しているのですね。いよいよ「丁石」の意味がわからなくなってきましたw
ばいみ〜 ミ彡
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