07/08の日記
23:14
【宮沢賢治】旅程ミステリー:近畿篇(8)
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銀閣寺付近にある道標。
右の標石には「左 志賀の山中越」とあり、
左の小さい標石には「右 京道」とある。
「京道」とは京都と比叡山無動寺をむすぶ道。
こんばんは (º.-)☆ノ
前回からの続きです:⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(7)
【7】 ルートE 「山中道」(つづき)――「鳥居の柱」から無動寺弁天堂まで。
地図(山中道:弁天堂付近)
こんばんは。
前回の記事を書いた時には、「鳥居の柱」から先(弁天堂方面)へは、まだ行っていなかったので、本で読んだ情報を書いたのでしたが、この間に踏査しましたので、まずはそのご報告を。
そこで、今回の出発点は「鳥居の柱」↓です。
この柱、前回来た時には気がつかなかったのですが、よく見ると、柱の上部に、鳥居の横木を通した跡がありますね。これ、まちがいなく鳥居ですよw
さて、「鳥居の柱」をくぐって下へおりて行くんですが、道が崩れて狭くなってます。もう参道とは言えませんが、ハイキングの山道だと思えば、こんなもんでしょうw
「小宅谷」に降り立ちました。
小宅谷。沢に沿って降りて行けば、琵琶湖岸に出ます。
ややっ。沢の対岸に、道らしきものが‥‥
たぶん、↑これが『1000年の道』に書いてある「山中道」の跡だと思うのですが、
行ってみたところ、まもなく道形が途絶えていました。使われない道は、あっというまに自然に戻ってしまいます。
すぐそばに、尾根通しに上がって行く道があったので、そちらから登ってみます↓。
「植樹記念碑」に到着。
おおっ!! 木の間越しに無動寺の建物が見えます。
上が明王堂、下が大乗院ではないでしょうか。
尾根通しの道は、おそらく最近造られたものでしょう。参道としてはとっくに廃道になっていても、「植樹記念碑」があるおかげで、ここまではなんとか道があるわけです。
「記念碑」を読んでおきましょう:
「東宮殿下御成婚記念林 拾町歩
(側面)大正十三年十二月植栽」
「東宮」は皇太子のことで、1924年に裕仁親王(のちの昭和天皇)が結婚式を挙げた時の記念植林です。つまり、1921年に宮沢賢治父子が比叡山に来た時には、まだ碑も植林も無かったことになります。
さて、「植樹記念碑」から先は、↓もうすっかり崩れて、どこが道だかさえよくわからない状態です↓
参道の跡をたどるのは諦めて、『1000年の道』にしたがって、路のない尾根を直登して行きます。
ところが、ここで思わぬ難所に逢着w
尾根を登って行けば、まもなく「白川道」の東海自然歩道(↑上の地図のオレンジ色の道)に出会うはずなのですが、登っても登っても道がありません。地形図内蔵のGPSでは、とっくに点線の道を通り過ぎているのに、森の斜面が続いているだけで、道らしきものはどこにもありません...
あやうく道迷いをするところでしたが、ここで“あること”を思い出しました。
最近、台風のせいで山崩れがあって、自然歩道のルートが付け替えられた場所があるのです。もとの道よりも、かなり高い場所に付け替えられて、登りがきつくなっていたので、覚えていたのですね。自然歩道が見つからなかったのは、ちょうどその付け替え箇所にぶつかっていたせいでした。
道のない斜面を上ったり下りたり、30分ほどうろうろしたあとで、やっと自然歩道に出会いました。やはり、便利だからといって機械に頼るのは危険ですねw
「白川道」の自然歩道で、弁天堂へ向かいます。
途中、道脇に古い丁石がありました↓
「一丁中川□□」
「一丁」と言ったら、弁天堂まで1町という意味なんでしょうね。
どうも、「丁石」というのもよくわかりませんね。ふつうは、麓から「1丁目」「2丁目」……というように、だんだん丁の数が増えてゆくもんじゃないんでしょうか? 「鳥居の柱」の手前では、たしかにそうなっていました。しかし、ここでは目的地の弁天堂までの距離を表示しています。「丁石」の「丁」って、麓からの距離なのか? 目的地までの距離なのか? どちらとも決まってなくて適当なのか?‥w
ともかく、「一丁」の「丁石」からまもなく、弁天堂の入口の鳥居が現れました↓
2つ目の鳥居↓。脇に石標があります:
「→ 京 北白川/一乗寺 道 約二里
(側面)昭和三十五年八月吉日(以下略)」
これは古いものではありませんね。「(北)白川道」「一乗寺道」という呼称は、近年まで使われていたことがわかります。
同じ鳥居を裏から見たところ。
こちら側には「大辨才天女」の石碑があります。
「大辨才天女 □□一乗寺(……) /享暦九拾本(……)
(側面)左 京道 北野天満宮 三里五丁/三条大橋 三里/両本願寺 三里□奉」
小さい字は摩滅していてよく読めませんが、やはりそれほど古いものではなさそうです。
「桜茶屋」経由の京道(白川道、一乗寺道)が開かれた明治以後のものであることは明らかでしょう。
弁天堂の中を通って、大乗院や坂本ケーブルの駅に行く側に出ると‥‥
手前の標石は新しいもので、
「→ 坂本/穴太 下山道」とあります。
「この下、大津・唐崎」の石標がありました↑。「植樹碑」のところから水平に来た路――本来の「山中道」参道――は、ここに出て来るのですね。
「この下 (指さす手) 大津唐崎
(側面)坂本道/廿五丁 見真大師/不動明王
(裏面) 京都/西光組中
明治卅二年二月 建之」
明治32年(1899年)にこの標石が建てられた時には、「山中道」は、もはや京道(京都へ下山する道)としての使命を終えて、もっぱら琵琶湖岸の唐崎へ下りる道として利用されていたことになります。
現在、「この下」には、道形はまったく残っていません。すっかり崩れて、がけになってしまっています↓
以上で、「山中道」を踏査し終えたことになります。机上の推定を、じっさいに現地を見て確かめることができました。
そこで、次回はいよいよ結論となるのですが、その前に、上の最後の標石にある「唐沢道」と、前回、よくわからない呼び名として指摘した「白河越え」「白鳥越え」について、片づけておくことになります。
ばいみ〜 ミ彡
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