09/07の日記
04:38
【宮沢賢治】イーハトーブ館の
💮💮アザリア展💮💮
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宮沢賢治設計『南斜花壇』
宮沢賢治記念館下に復元されたもの
こんばんは (º.-)☆ノ
東北新幹線・新花巻の『宮沢賢治イーハトーブ館』で開かれている《「アザリア」の仲間たち展》に行ってきました。
じつは会期中2回目の訪問でして、9月中にもう1回行く予定です←
ことしは、1917年7月に《アザリア》が創刊されてからちょうど 100年なんですね。
『宮沢賢治記念館』のほうでも、9月2日から併行して《『アザリア』100周年記念展》を開催しています↓。こちらは、《アザリア》の実物と賢治原稿の展示が中心らしいです。
『アザリア』は、言うまでもなく宮沢賢治が在学中の盛岡高等農林学校で、同級生・下級生の仲間と刊行した文芸同人誌ですが、これは賢治の“文学的出発”だったと言ってよいのです。“文学的出発”という言葉はさまざまな意味で使われますけれども、短歌や文芸的な散文を、人に読ませるものとして書いたという意味では、この『アザリア』への投稿が初めてだったと言えます。
ただ、この段階ではまだ、文学を一生の仕事にしようなどとはまったく考えていなかったと思われます。そうした意識を持つようになったのは、1921年に東京に滞在したあいだのできごとだったと思われるのです。【参考】⇒:ゼロからのエクリチュール(1)〜
旧・盛岡高等農林学校・本部校舎
盛岡高等農林学校・自啓寮(寄宿舎)跡
さて、『イーハトーブ館』の《アザリア展》ですけれども、単に見てくれのよい小ぎれいな展示というようなものではなくて、詩人・童話作家“宮沢賢治”の成立に欠かせなかった“アザリア・サークル”の実体が、これまでになく調査されて公開された点で、この方面の研究は飛躍的に前進したと言ってよいと思います。
これまで、『アザリア』といえば、宮沢賢治、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行の4名を除く他のメンバーについては、ほとんど何も知られていなかったのですから
きっと何か新しい発見があるにちがいないと期待して訪れたのですが、展示は期待以上でした。
「そうか‥ そういうことだったのか‥」と会心の笑みを浮かべること、1度や2度ではありませんでした……
『宮沢賢治イーハトーブ館』
いきなり核心を出してしまいますが、展示の白眉はなんといっても、↓このパネルでしょう。(以下、図録にもある説明や画像は、図録の写真でお目にかけます。)
『アザリア』同人の“相関図”
ここに見える13人が、現在までに判明している『アザリア』同人です。同人は、この13名以外にもいたでしょう。『アザリア』掲載の記事・作品は、みなペンネームで書かれていて、誰のものか判明していないペンネームがまだあります。寄稿をしなかった“ロム”の同人もいたかもしれません。
そもそも、『アザリア』という雑誌は、一種の秘密結社のようにして発行されたらしいのです。謄写印刷で同人の数だけを刷り、同人にだけ配布されました。同人以外の者には見せない、学校の教職員にはもちろん見せてはならない――という不文律のような暗黙の了解があったようです。同人名簿のようなものは作られませんでした。全掲載記事がペンネームというのも、万が一学校当局に知れた時に誰が書いたか判らないようにするためであったかもしれません。
それが、この雑誌の原本が現在では1,2部しか残っていない原因でもあります。同人の多くが――おそらく宮沢賢治も――卒業後は、“危険”な本誌を人知れず処分してしまったことでしょう。
今日の“同人誌”のようなエッチな絵や著作権違反の二次創作などは載せられていませんが、…おそらくは、多少の政治色のある文章も載せたことが、この雑誌を同人たちが“内密”にした理由だったと思われます。
高等農林学校は、大学のような自由な気風のある学校ではありませんでした。純理科系の学校だったこと、学生数にくらべて教職員数が多かったことなどから、教育は学科中心であり、学生の自由な活動を許す余地はなかったと思われます。宮沢賢治がこの学校で学んだ各科目の内容を見ても、たった3年間によくこれだけの内容を吸収できたものだと驚くほどです。
学校には『校友会会報』があり、文芸投稿欄もありましたが、“政論”は厳しく禁じられており、短歌も恋愛などの軟派なものは掲載されていません。
同人たちが『アザリア』を発刊したのも、学校のこうした窮屈なふんいき――当時は社会全体がそうだったのですが――から這い出すことのできるオアシスを求める気持が強かったと思われるのです。
『アザリア』小菅健吉旧蔵本
ここで、“アザリア・サークル”の“相関図”↓を、もういちど出しますが、メンバーの中心が、保阪嘉内のいた「鎌田屋」下宿の住人だったことがわかります。
これは、宮沢賢治のまわりだけを見ていたのではわからなかったことです。
「鎌田屋」は、盛岡市材木町の北上川岸(夕顔瀬橋の近く)ですが、じつは高等農林(現・岩手大学農学部)の正門から歩いてすぐなのです。これは観光ルートをめぐっていても気づきません。盛岡駅から行くと、それぞれまったく別方向のような気がするからです。
その「鎌田屋」には下宿生の集会場のような大きな部屋もあって、学生たちのたまり場になっていたと言います。“アザリア・サークル”結成の会合や、作品批評会も、ここで開かれたようです。
学校のすぐ近くに、教職員の目の届かない“たまり場”があったこと、そこに、甲府中学の自由な教育を受けた保阪がいたこと―――そうした条件が『アザリア』を生んだのだと思います。
【参考】(甲府中学・大島正健の自由教育)⇒:風の谷(3)
『アザリア』同人の“相関図”
今回の《アザリア展》の成果の一つは、メンバーそれぞれの卒業後の後半生について、詳細な情報を明らかにしたことだと思います。会場で購入できる図録『宮沢賢治と「アザリア」の仲間たち』には、「『アザリア』同人メンバー年表」が付録冊子として付いています。
これを見て、とくに驚くのは、メンバーの多くが卒業後は海外に移住していることです。中心メンバー4人の中で、小菅健吉がアメリカに留学したことは、これまでも知られていましたが、メンバー全体を見ると、海外に行った人のほうが多いくらいで、宮沢、保阪、河本のように内地に留まっていた者は、むしろ少数なのです!
小菅健吉 アメリカ中西部(オハイオ州、カリフォルニア州等)
鯉沼 忍 満洲・中国(奉天、大連、天津)
纐纈熊雄 アメリカ西部(カリフォルニア州)
福永文三郎 朝鮮(ソウル、釜山)
市村 宏 中国(青島)
中島慶助 アメリカ西部(カリフォルニア州)
伊藤忠次 朝鮮(忠清南道、全羅北道、咸鏡南道)
いずれも相当長期にわたって、または終身、海外滞在しています。
ただし、市村宏だけは別で、保阪と同じ時期に単位不足で除籍になった後、直ちに拓殖大学支那語科に入学・卒業し、青島に赴任していますが、数年内に帰国し、内地の生保会社に定年まで勤務。晩年は俳人として過ごしています。『アザリア』の時から、掲載作品には与謝野鉄幹流の文芸臭が漂っており、同人の中では珍しいと言えます。
『アザリア』には、とくに海外移住したメンバーが多かったようですが、彼らばかりでなく、この前後の盛岡高等農林の卒業生には海外に行った者が多かったかもしれません。『アザリア』外で宮沢賢治と文通のあった同級生の佐々木又治、成瀬金太郎の2人は、就職と同時に南洋群島に赴任しています。のちに賢治が訪れたサハリンにも、盛岡高農の卒業生がおおぜいいて、歓迎会を開いたようです。
ともかく、これらの事実によっても“アザリア・サークル”のふんいきが想像できます。メンバーは、当時の日本の息苦しい社会から抜け出したいと願っていたのではないでしょうか?……その表れとして、学校の専門学科とは全く無関係な文芸に興味を持ち、卒業後は海外に活路を求めたのではないかと思うのです‥
今回の《アザリア展》は、宮沢賢治作品に関しても、大きな発見を公にしました。
『銀河鉄道の夜』の最終稿である〔第4次稿〕への書き換えは、なぜ行われたのか?‥‥カムパネルラの水死場面は、なぜ書かれたか?‥‥この問題について、ほとんど決定的な回答が与えられたのです。
宮沢賢治が亡くなる2か月ほど前の 7月18日、鳥取県・倉吉農学校の教諭をしていた河本義行(『アザリア』同人)は、生徒の遊泳を監視中に、遊泳中の青年と農学校の同僚が溺れそうになって助けを求めているのを発見し、救助に向かった。2名は舟に助けられたが、救助に向かった河本は、戻る途中に水死するという事故が発生しました。
水難者を救助しようとして自身が水死するという状況が、『銀河鉄道の夜』のカムパネルラ水死の場面――〔第4次稿〕で書き加えられた――に酷似しているため、賢治は河本水死の知らせを聞いて、この部分を書いたのではないかと、以前から言われていました。
ところが、賢治の弟の清六氏が「河本氏の死の知らせは、誰からも来なかった。」などと言ったので、賢治研究屋はみな右へならえしてしまい、“カムパネルラの水死は河本とは無関係”が定説になっていたのです。
しかし、今回、盛岡高等農林の『同窓会報』第35号に、↓こんなに詳しく河本の死が報じられていたことが明らかになりました。
『同窓会報』第35号より
この号は、1933年8月25日の発行ですから、9月21日に永眠した宮沢賢治の眼に触れていたことは確実です。
「生徒の水泳監督中に一青年の溺るゝを救助したるに」
と書かれていますから、カムパネルラ水死場面を書くモチーフとしては十分ではないでしょうか。
そうすると、賢治は、おそらく8月後半にこの訃報を読んで、1か月にもならない短期間に〔第4次稿〕への改稿を行なったことになります。〔第4次稿〕には、推敲の不充分な箇所が多いことも、これによって理解できます。
しかし、それよりも重大なのは、清六氏に対する評価だと私は思います。賢治が最後の力を振り絞るようにして原稿に向かっていた姿を、清六氏が目にとめなかったとは思えません。ところが、清六氏は、賢治の最後の日々について、そのようなことは全く書いていないのです。氏は、“知っていて黙殺した”と考えるほかはないのです。
生前は陽の目を見ることのなかった宮沢賢治の原稿を、ある時は命を賭けて守り、これを世に伝えた清六氏の功績は、どんなに評価しても足りないでしょう。しかし、それだけの“大仕事”を貫くには、個人的な思い入れが入ることも避けられません。清六氏や他の親族の熱心が、場合によっては作品解釈を歪めている部分は、ほかにもあるかもしれません。
これからは、もっと冷静に、つきはなして、いろいろなことを再検討してゆく必要があるのだと思います。
宮沢賢治設計『日時計花壇』
宮沢賢治記念館下に復元されたもの
ばいみ〜 ミ彡
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