09/27の日記
06:25
【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(1)
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おはようございます(^^)ノ
宮沢賢治の“文学的出発”は、いつだったのか?
この問題について、すでにさまざまに論じられています。
多くの議論が、『愛国婦人』1921年12月号に掲載された童話『雪渡り』、あるいは、同じ雑誌・同年9月号掲載の童謡『あまの川』あたりを重要な画期と見ています。これらは、はじめて公器───校友会誌や同人誌ではなく、一般人向けの刊行物───に、審査を経て掲載されたものだからです。つまり、公の言論界に通用する作品を創りはじめたと言えるし、また、著者としても、はじめて、それだけの心構えで臨んだと言えるからです。
しかし、“文学的出発”ということを、宮沢賢治本人の問題として考えれば───とくに、彼の場合、才能があってそれを発揮することが、直ちに“発表”という形で公に受け入れられることと結びつかない、むしろ生涯かけた厖大な作品の大部分が生前には評価されなかった、ということを考えるならば───“文学的出発”は、それらの“発表”よりも以前にあったと考えなければならないでしょう。
じっさい、賢治は、1921年の上京よりも以前から、当時一種のブームになっていた『赤い鳥』などの童話・童謡雑誌の一般公募に、しばしば応募して没になっていたようです。
宮沢賢治の場合、その作品──中学生時代の短歌も含めて──の疑いない価値を認識している現代の読者である私たちの立場では、“文学的出発”は、本人に即して考えるべきであって、当時の出版界が受け入れたかどうかを基準とすべきではないと思うのです。
そこで、たとえば、弟の宮澤清六氏などは、賢治が高等農林を卒業した1918年の夏に、自作の童話2篇を家族に読んで聞かせたことを、より重要な画期と見ているようです:
「この夏に、私は兄から童話『蜘蛛となめくぢと狸』☆と『双子の星』を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄が見えるようである。」(『兄のトランク』,ちくま文庫版,p.251)
☆(注) 童話『洞熊学校を卒業した三人』の初期形。
同様に考えれば、1917年7月に保阪嘉内らとともに同人誌『アザリア』を発刊した時点…、あるいはもっと遡って、短歌の制作を始めた中学2年生の1911年1月(『歌稿A』の開始時点)をもって、歌人・詩人・童話作家宮沢賢治の“出発”と考えることもできそうです。
しかし、“発表”できたかどうかを度外視し、純粋に本人に即して考えてみても、中学〜高等農林の1918年ころまでと‥、たとえば、初版本『春と修羅』の発行を目指して自作詩稿の推敲に打ち込んだ1923年頃、およびそれ以降とでは、本人の姿勢そのものに明らかな違いがあります。
その違いとは、ひとことで言えば、“書くこと”を言わば自分の仕事として、“天職”として──社会に供給して対価を得られるかどうかは二の次の問題として──引き受けているかどうかの違いだと思うのです。
この“天職”意識なくしては、詩、散文の区別なく遂行された・自作に対するあの凄まじいまでの推敲・再考・改訂はありえなかったはずです。なぜなら、そのような営為は、自己の作品に対する容赦のない批判と改革の精神なくしては考えられないことだからです。
そうすると、やはり、賢治の“文学的出発”は、1918-19年頃と1922-23年頃の間のどこかに置かれることになりそうです。
上にも述べたように、『愛国婦人』誌上での童謡・童話の掲載を重視する見解は、天沢退二郎氏らによって提唱されて、非常に有力なのですが、‥それにしても、本人が決意を持って“出発”してから、ようやくその作品の一部が掲載されるまでには、相当の期間を要したはずで、やはり“文学的出発”は、その何ヶ月か前‥、あるいは何年か前にあったのだと考えなければならない。。。
そこで、‥それはいつだったのかを究明するには、少なくとも二つの方法があるように思います。
ひとつは、賢治が遺した原稿類、詩、短歌、童話、その他の随筆的散文まで、それらの成立史まで遡って見て行くことです。
この方法は重要ですけれども、反面、客観的に認められるような結論を出すことは容易でないと思われます。個々の作品や草稿内容の評価にかかわることですから、それぞれの論者が勝手なことを言って水掛け論に終るおそれがあります。よほどしっかりとした文学の方法論に基いて議論を立てなければ、他人にも通じる議論とはなりにくいでしょう。また、それにしても、依拠した方法論じたいの妥当性をめぐっての議論が、さらに続くことになります。
文学については素人で、文学理論はよく知らないギトンとしては、この第一の方法は専門家の方々にまかせておくほかはないかもしれません。
しかし、もうひとつの方法があります。それは、本人の書き残したものから、‥その文学的内容の評価ではなく‥本人の意思を忖度することです。“文学的出発”とは、本人の意識なくしてありえないことですから、たとえ、「文学」「詩」「作家」といった概念でなくとも──むしろ、そういった既成の概念に反逆し、それらを否定するような方向であったとしても──何らかの影響を意識に及ぼし、その表現を、少なくとも本人の書いたものの端々に覗かせているはずです。
そして、この第二の方法にとって重要な資料は、家族からの聞書きや、友人知人の回想談のたぐいではなく、“文学仲間”、とりわけ保阪嘉内との往復書簡だと思います★
★(注) 往復書簡と言っても、賢治が受け取った嘉内からの書簡は、現在まったく見ることができません。おそらく、いずれかの時点で、本人または本人没後の遺族の手で処分されてしまったことと思われます。(おそらく、「カネにならないものは捨てる」という考え方です。)しかし、保阪のつけていた日記は現存しているので(未公表ですが)、公刊された諸書から窺い知れる保阪日記の内容を併せて見ていけば、二人の文通のやりとりについて、ある程度のことは判断できます。
ばいみ〜 ミ彡
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