04/07の日記

05:56
花びらの流星群

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おはようございます。。







池澤夏樹さんの『言葉の流星群』は、宮沢賢治の詩の鑑賞を、1章に1個ずつしてゆくもので、



現役作家の並々ならぬ力量を感じさせます。










池澤さんは、まえがきで:



「何度となく手を加えられながら完成されることがなかった、輝く結晶をたくさん含む母岩のような詩」



と、ミヤケンの詩を特徴づけているのですが、‥のっけから、ナルホドと思わせますね。

たしかに、“原石”なのですよ、ケンヂさんの詩や短歌は。。。


発表されなかった童話や短篇小説も、大部分そうかもしれません。




“原石”だから、注意して見ないと、光っているのかどうか分からない。

でも、きれいに稜を整えて研磨された宝石には無い輝きが、“原石”にはたしかにあります。














「世間は最初から生活の濃い影を作品に重ねるような読みかたでこの詩人を理解しようとしたが、ぼくはそういう姿勢を好まない。生活よりも才能の方が大きかった人の場合、伝記を重視すると才能が生活のサイズまで縮んでしまう。だから、ここではテクスト群だけを相手に、伝記的なことにはあまり触れずに読んでゆきたい。一々注をつけるような学究的な態度も捨てて、勝手気儘にこの詩人の世界を跋渉してみようと思う。」



これも歓迎すべき姿勢だと思います。


これまでも、“テキストだけで読む”と標榜する批評家はたくさんいましたけれども‥、“学究”的な態度を捨てきれないのでしょうか‥‥ “人生論”的な読み方をしてきた学者・批評家の作り上げた枠組みを意識的・無意識的に前提してしまって、それに囚われています。


たとえば、長詩「小岩井農場」に現れる黒い服装の人物たちを、みな十把一からげに“作者の分身”だと決め付ける傾向などは典型的な“人生論”的囚われです:⇒:3.3.4 黒い外套の男










そういうわけで、↑上のリンクの『ゆらぐ蜉蝣文字』では、それこそ一語一語を辞書で引き、ケンヂさんのほかの作品を参照して、どんな意味だろう‥、何を言おうとしているのだろう‥、と考えながら読んだのですが、



いちどそうしたことは何もかも忘れて、勝手気儘に、この『心象スケッチ 春と修羅』を読み直してみたい‥、“全詩踏破”をやり直してみたい‥ そんなことも思いつくのですが..









それは、しばらくあとにしたいと思います。


いまギトンが心がけているのは、ミヤケンのテキストを“人生論”無しにマッサラの状態で読むことと併行して、‥








『ゆらぐ蜉蝣文字』を書きながら、周辺的な知識の不足を非常に強く感じました。


それは、ミヤケン個人のことではなくて、もっと広い歴史の知識です。


とは言っても、単に歴史の本を読めばよいということではありません。この方面の知識は、ギトンはふつうの人よりはあるつもりなのです。

しかし、そうして当然のように思ってしまっている日本史の、あるいは世界史の枠組みが‥、はたして本当にそうなのか?‥あるいは、これ以外ありえないという絶対的な枠組みだったのか‥?(歴史には“唯一正しい真理”というものはありませんから 笑)




いま、網野さんと石井進さんの対談を読んだりして、⇒:『米・百姓・天皇───日本史の虚像のゆくえ』


‥ゆくゆくは、あの古典的な古島敏雄さんの『日本農業史』を、“農業でない角度”から読み直せないか‥ということを考えています。







かんたんに言うと、いま念頭にあるのは、“農本主義”は、いかにフィクションなのか、それがウソなのは当然のこととして、どんなふうにウソなのか?‥‥ということでして、


明治以来の日本の歴史家や経済学者、政治学者の書いた歴史には、“農本主義”の影が色濃いのではないかという気がしているのです。





“農本主義”とは、事実でも現実でもなくて、単に、“こうあるべきだ”というイデオロギーにすぎないのですが、

それを前提にして歴史が書かれてしまい、学校で教え込まれてしまうと、

“事実そうだった”と人々は思いこんでしまって、それが当然の現実だったことになってしまいます。




しかし、じつは、そうではなかった。それは、歴史家が吹聴して、国家が国定教科書で正統化して教育して、人々に信じこませているフィクションにすぎないのではないか?‥





網野さんと石井さんが対談の中で言っていることは、けっきょくはそういうことだと思います。











そこでミヤケンを振り返ってみますと、



たとえば、童話集『注文の多い料理店』には、「稲」も「お米」も全然出てこない‥、という驚くべき特質があります。

「オリザ」というミヤケン独特の用語でも出てきません。



「鹿踊りのはじまり」で、主人公が食糧を背負って山の湯治場へ出かけてゆくところでも‥、

食糧であるからには、お米が入っているのは間違えないのですが、ケンヂさんの書いた文章には:



「糧(かて)と味噌と鍋とをしよつて」

としか書いてありません。





いや。。。 もっとちゃんと読んでみると:



「そこらがまだまるつきり、丈高い草や黒い林のままだつたとき、嘉十はおじいさんたちと北上川の東から移つてきて、小さな畑を開いて、粟や稗をつくつてゐました。

と書いてあります。。。



食糧は当然にお米だろうと思ったのは、じつは読み誤りで、嘉十の背中の袋には、粟や稗が入っているのかもしれないのです。。。



ともかく、

岩手県稗貫郡という、東北の米作地帯のまっただなかで書かれた童話集に、お米が全然出てこない‥ これは驚異的なことです!









短歌群でも、稲、水田、お米、。。。 こうしたものはほとんど詠まれていません。

むしろ、目立って詠みこまれているのは「稗畑」だったりします:



「粟ばたけ
 立ちつくしつゝ青びかり
 見わたせば
 百合、雨にぬれたり」(歌稿B #581)


「しろがねの
 あいさつ交すそらとやま
 やまのはたけは
 稗しげりつゝ。」(歌稿B #582)


「岩鐘のまくろき脚にあらはれて
 稗のはた来る
 郵便脚夫」(歌稿B #583a584)



 #582 も、陸稲の畑に稗が雑草として茂っているというのではなく、稗を栽培している稗畑なのだと思います。歌全体の調子から、そう思えます。








それにしても、“お米”が全然出てこないのは、なぜなのか? そこには作者の意図があるのか? しかし、宮沢賢治という人の(しかも農学生の!!!)その時期の作品すべてがそうなのだとしたら、それは彼の人生観なのか?

あるいは、われわれの知らない・当時の東北地方の事情が何かあるのか?





ギトンがいま思いついているのは:



@ 江戸時代から明治・大正にかけて、私たちが“稲作の国・日本”と思っているのは、じつは虚像で、じっさいには、江戸時代でも稲作は農業の中心ではなかった!幕末・明治以後に全国的には水田も稲作も増えたが、東北地方、とくに北上山地などでは、雑穀の比重がまだ非常に高かった。昭和年代に冷害に強い品種が奨励されて以後、ようやく稲作は山間部まで及ぶようになった。

(宮沢賢治は、冷害・病害に強い品種「陸羽132号」の普及に努力したかのように言われていますが、それは賢治崇拝者の買いかぶりです。少なくとも農学校教師時代には、彼はこの品種には“反対”で、そのことで穀物検査所の技師とケンカをしているほどです‥)




A 山間部の生活、つまり柳田國男の言う“山の人生”、あるいは“先住民”への共感ないし志向から、宮沢賢治は、当時の日本一般の農業観、農民観、なかんずく“農本主義”に対して、相容れないものを感じていたのではないか。。。






こんなところですが、これはまだ序の口の思いつきに過ぎません。これから変るかもしれませんし、

ともかく、こういった方向で、‥賢治作品を読む際の無意識の当然の“前提”を考え直す意味で、日本史の勉強をすっかりやり直してみたいと思っています。










(きのうの“アスカ山の桜”に話が届きませんでしたがw‥

それは、このあとで、話の先につながってきます)
















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カテゴリ: 宮沢賢治

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