ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.3.4


. 春と修羅・初版本

28うしろから五月のいまごろ
29黒いながいオーヴアを着た
30醫者らしいものがやつてくる
31たびたびこつちをみてゐるやうだ
32それは一本みちを行くときに
33ごくありふれたことなのだ

34冬にもやつぱりこんなあんばいに
35くろいイムバネスがやつてきて
36本部へはこれでいいんてすかと
37遠くからことばの浮標(ブイ)をなげつけた
38でこぼこのゆきみちを
39辛うじて咀嚼するといふ風にあるきながら
40本部へはこれでいヽんですかと
41心細さうにきいたのだ
42おれはぶつきら棒にああと言つただけなので
43ちやうどそれだけ大へんかあいさうな氣がした

44けふのはもつと遠くからくる

8ページの真ん中から、この「パート二」の最後(44行目)までは、「黒いながいオーヴァを着た/醫者らしい」人物に関連するスケッチになっています。

34行目から43行目までは、冬(おそらく、この年1月6日)の農場来訪時にも似た服装の人物に出会ったという回想が挿入されています。

この“黒いオーヴァ”の人物をめぐって、批評研究のなかで、細かい議論があります。

戦後の多くの批評家は、この“黒いオーヴァ”の人物、また、冬の回想に出てくる人物まで含めて、それは作者が出会った実在の人物ではなく、作者の“分身”ないし“自画像”として創作されたものだと解釈してきました。

ギトンは、通説のこの“うがった”解釈に対して、大きな疑問を持ってきましたが(多くの一般読者もそうではないかと思います)、

最近、岡澤敏男氏は、当時の農場の設備や医療に関する詳しい実証に基いて、この見解に反論しています。
当時の農場の体制・諸状況から判断すれば、詩本文に描かれたような“醫者”に、賢治が実際に出会うことは、十分にありうることなのです。

さて、“作者分身説”を述べたのは、おそらく宮澤清六氏が最初だったのではないかと思いますが、いまギトンは典拠を失念していますので、清六氏については他日を期したいと思います。

戦後の通説的見解で重要なのは、恩田逸夫氏だと思います。恩田氏は、この問題だけで一通の論文を書いています:☆

「彼
〔宮澤賢治〕が農場で出会って心理の明暗を形成する素因となる人物として、〔…〕一見実在人物のようでありながら、実は賢治の分身であり、内心の声の表現として扱われている人物がある。『黒い外套の男』がそれである。」

と、恩田氏は述べ、「小岩井農場」から、↑前記の「パート2」のほか、「パート4」「パート7」の箇所を引用して、

「右のように『黒い外套の男』は、彼を『修羅=苦悩』にひきずりこむ『もう一人の彼』であり、その根柢には『まこと』への希求が予想されている。」

と論じています(pp.183-184)。

☆(注) 恩田逸夫「黒い外套の男」,in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究T』,1975,学藝書林,pp.182-186.〔 〕内はギトン。

恩田氏の見解を整理すると、

@「黒い外套の男」は、「一見実在人物のようでありながら、実は
〔架空の人物であり〕賢治の分身であり、内心の声の表現」である。

A「黒い外套の男」は、作者を「『修羅=苦悩』にひきずりこむ『もう一人の彼』」であり、作者の「心理の明暗を形成する素因となる」架空人物である。

ということになります。

なお、恩田氏が「黒いオーヴァ」でなく「黒い外套の男」と言っているのは、

↑29-30行目の「黒いながいオーヴアを着た/醫者らしいもの」を、冬の回想の「くろいインバネス」や、「パート7」に登場する「くろい外套の男」と、すべていっしょくたにして、ひとりの架空人物だと解釈しているためです。

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