03/20の日記

19:32
100年たってようやく‥(10)

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こんばんは。。




昨日の『土神と狐』に続いて、今夜は、『狼森と笊森、盗森』を取り上げます。前半のあらすじは、こちらで⇒:『ゆらぐ蜉蝣文字』3.7.26




「四人の、けらを着た百姓たちが、山刀(なた)や三本鍬(さんぼんぐは)や唐鍬(たうぐは)や、すべて山と野原の武器を堅くからだにしばりつけて、東の稜(かど)ばつた燧石(ひうちいし)の山を越えて、のつしのつしと、この森にかこまれた小さな野原にやつて来ました。よくみるとみんな大きな刀もさしてゐたのです。」




これは物語の冒頭で、今では小岩井農場になっている未開拓の原野に、人間が最初に移住して来たときのことですが、

4人の入植者が「大きな刀」を差していたのは、なぜなのか?

この「百姓たち」は、じつは土着しようとする武士か、屯田兵なのか?‥それとも、ただの農民にすぎないのに、未開拓地にいる“先住者”──魔物たちに威勢を見せて制圧する意図で、わざわざ禁制品の刀を仕入れて持って来たのか?‥

いずれにせよ、“先住者”、あるいは原野にいる鬼神、精霊、妖怪‥そういった未知の存在に対する警戒と制圧の意志が、明らかに感じられるわけです。



ところで、これと似た‥、しかし主客を逆転させたような話を、アイヌの方から聞いたことがあります:



「むかし、私が子供の頃住んでいたアイヌの部落では、日本人がやってくることはめったになく、来れば必ず私たちに何か災いをもたらしに来る役人だと、私たちは信じていました。

 部落のはじの家で、遠くから日本人が来るのが見えると:

 『刀を持った人が来たぞ〜』

と、アイヌ語で、部落中を駆けめぐって知らせるのです。そうすると、各家では、女子供は家の中へ入れるとか、男たちは武器になるものを持って戸口の前に立つとか、それはもうおおわらわになったのです。

 私たちは、日本人を『刀を持った人』と呼んでいました。部落に来る役人は、みなサーベルを腰に提げていたからです。」





これは、萱野茂さん(1926-2006 二風谷アイヌ資料館館長,参議院議員)がご存命のときに直接うかがった話なので、文献を挙げることができないのですが、おそらくアイヌの人たちの間では常識に属することなのだと思います。

賢治童話の「大きな刀」を差した入植者と、アイヌ語の日本人に対する呼称「刀を持った人」とは、単なる偶然の一致かもしれませんが、つながりがあるかもしれません。




『狼森と笊森、盗森』は、1921年11月(童話集記載の日付)か、それより後に成立した作品で、‥つまり、宮沢賢治は、この年1月から8月頃まで東京に滞在して、帰ってきた後の作品です。

東京で金田一京助と何度か接触があったことは、金田一の回想記にも書かれていますし、当時金田一が設立した「啄木会」に賢治が入会していることからも裏付けられます。

つまり、賢治は金田一を通じて、知里幸恵の執筆中の『神謡集』や、活字にならないようなアイヌ部落の事情まで聞いていた可能性はあるのです。

(金田一京助の回想記までたんねんに追っておられる秋枝さんの研究によれば、1921年に東京で会った時点で、アイヌに関する話が交された可能性は低いとされます。西成彦・他編『異郷の死』,2007,人文書院,pp.227-251. たしかに、実証的にはそう言うほかないのだと思います。ただ、金田一京助という人は、自分の回想記に事実を正確に書く人ではなかったようです。辞書作りとか、いろんなことについて、他の人の証言や自分で書いた別の回想記と矛盾があると‥、よく言われます。宮沢賢治と東京で出会った状況についても、互に矛盾する二通りのことを書いてるくらいですから、書き落としは多いと思うのです。少なくとも、宮沢のほうは、樺太アイヌに関する業績で金田一を尊敬していて東京の自宅を訪ねた──ということは、秋枝さんが立証しておられるとおりです。両者の接点は、啄木よりも、樺太とアイヌへの関心だったと思います。)





ともかく、


「そこで四人よつたりの男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃へて叫びました
 『こゝへ畑起してもいゝかあ。』
 『いゝぞお。』森が一斉にこたへました。

 みんなは又叫びました。
 『こゝに家建てゝもいゝかあ。』
 『ようし。』森は一ぺんにこたへました。

 みんなはまた声をそろへてたづねました。
 『こゝで火たいてもいいかあ。』
 『いゝぞお。』森は一ぺんにこたへました。

 みんなはまた叫びました。
 『すこし木い貰つてもいゝかあ。』
 『ようし。』森は一斉にこたへました。」




というように、“森”の同意をとったうえで開拓が始まります。

しかし、“相手の同意を得ているから問題は無い”で、万事が済むわけではありません。“問題は無い”と思うのは、あくまでも“中心部”の論理、膨張の論理にほかなりません。


開拓が進んでいけば、いままで先住民の生活を育んでいた大地は、徐々にその姿を変えていきます。自然のみに身をゆだねて成り立っていた先住民の生活はバランスを崩し、崩壊して行かざるを得ないのです。

たとえば、樺太アイヌの歴史について、テッサ・モーリス=鈴木は、かつて半狩猟・半農の生活をしていたアイヌは、日本人の入植によって森林が破壊されて原始農耕ができなくなり、もっぱら日本人に雇われて奴隷的状態で漁労に従事するようになったとしています。

アイヌが狩猟民だというのは、鈴木によれば、日本人に追いやられて農業ができなくなったために“農耕化”以前に逆戻りした姿にほかならないのです。




「童話『狼森と笊森、盗森』は、開拓農民による先住民の土地の収奪の様相が秘められた物語であるが、そこでは後から来た者たちが土地を所有し、先住民が『盗(ぬすと)』とされ、『鬼』とされる歴史の不合理が照らし出されている。」


という秋枝氏の“まとめ”は、やや図式的過ぎるかもしれません。この童話の中では、土地の収奪ないし所有をめぐる問題は現れていないからです。




小岩井乳業工場から見た《狼(おいの)森》


それでは、どんな問題が現れているかというと、究極的には“交換”にかかわる問題群だと思います。


問題が最初に起こったのは、開拓部落に最も近い《狼森》においてであり、その次には《笊森》で起こり、さらにその後《盗森》で起こるというように、未開拓地の奥へ進んでゆくにしたがって、問題の様相──“森”の住人たちと開拓民の間の矛盾──は、より深刻化して行くのです。


《狼森》の住人である狼たちは、開拓民の子供たちを自分たちの領域にさらって行ってしまうが、開拓民が探しに行くと、焚火の周りを走り回っていっしょに遊んでいた、という、一見ほほえましくなるようなエピソードです。

しかし、ここでもすでに、先住民と開拓民の生活感覚の相異が、亀裂として現出しているのを見ることができます。開拓民たちが焚火のそばに近づくと、火は消え、狼たちは歌うのをやめ、子供たちは泣き出してしまうのです:



「『狼どの狼どの、童(わらしや)ど返して呉(け)ろ。』

 狼はみんなびつくりして、一ぺんに歌をやめてくちをまげて、みんなの方をふり向きました。

 すると火が急に消えて、そこらはにはかに青くしいんとなつてしまつたので火のそばのこどもらはわあと泣き出しました。」






この事件を経て、開拓民と“森”との間のコミュニケーションの方法として、“贈物の交換”という習俗が開始されるのです:



「そこでみんなは、子供らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、

 『悪く思はないで呉(け)ろ。栗だのきのこだの、うんとご馳走したぞ。』と叫ぶのがきこえました。みんなはうちに帰つてから粟餅をこしらへてお礼に狼森へ置いて来ました。」




このような儀礼的な“交換”は、互いに相手に敵意を持ってはいないことを示し、確認しあうことに意味があるのだと思います。



《笊森》の場合には、矛盾はもう少し悩ましい形で現れます。

《笊森》の住人である山男が、開拓民たちの家から農具を盗んで森の中に隠してしまうのです。盗んだものが農具だというのは、意味があります。農具は、まさに環境を変化させる開拓行為そのものの道具だからです。

しかし、山男が、


『おらさも粟餅持つて来て呉(け)ろよ。』



と叫んだことによって、《笊森》と開拓民との関係も、《狼森》と同じ“交換”の習俗に組み込むことによって難なく解決します。




問題が最も鋭い形を取って現れるのが、《盗森》の場合です。《盗森》の住人の「まつくろな手の長い大きな大きな男」は、ある秋に開拓民たちが収穫した粟を全部盗んで行ってしまうのですが、開拓民が出かけて行って追及しても、


『何だと。おれをぬすとだと。さう云ふやつは、みんなたゝき潰してやるぞ。ぜんたい何の証拠があるんだ。』





と言って頑強に否認するのです。

けっきょく、この場合は、“機械上の神(デウス・エクス・マキナ)”が登場して解決するほかはありません。つまり、《岩手山》が登場して証人になり、《盗森》に命じて粟を返させて一件落着となります。




しかし、“機械上の神”が現れるときは、作者のストーリーが破綻したことを示していると言われます。全知全能の“機械上の神”が裁定してくれなかったとしたら、先鋭化した矛盾は爆発し、開拓民と“森”との間で戦争になって“森”は征服されるか、あるいは、開拓民が敗北して農具も収穫物も奪われ、開拓地から引き揚げることになるかでしょう。





というのは、この《盗森》事件の際の《狼森》《笊森》の態度が重要です。かれらは、《盗森》が事件を起こしたおかげで、今年も開拓民から“お礼”の粟餅がもらえると思って喜んでいるのです:


「狼(オイノ)共は九疋共もう出て待つてゐました。そしてみんなを見て、フツと笑つて云ひました。

 『今日も粟餅だ。こゝには粟なんか無い、無い、決して無い。ほかをさがしてもなかつたらまたこゝへおいで。』」




「すると赤つらの山男は、もう森の入口に出てゐて、にや/\笑つて云ひました。

 『あはもちだ。あはもちだ。おらはなつても取らないよ。粟をさがすなら、もつと北に行つて見たらよかべ。』」







つまり、一連の事件を通じて、原野の自然環境が変えられてしまっただけでなく、先住民たちの性格も変質してしまっているのです。彼らは、開拓民が懐柔のために届けてくる贈物への欲望に溺れてしまっています。

そこから、“保護民”──自律的な生活の営みを失うとともに尊厳を喪い、征服民の供給する食糧に依存する状態までの距離は、ほんの数歩にすぎません。




そして、作者自身、それを意識して書いていることは、比較的懐柔されにくい気丈な先住民の存在──「黒坂森のまん中のまつくろな巨きな巌」──を描いて対比させていることによって明らかです。


しかし、この《黒坂森》の住人を、作者は、人でも動物でもない「巨きな巌」としなければならなかったこと、その気丈な先住民にさえ、

“開拓民たちが毎年持って来る粟餅も、最近はずいぶん小さくなった”

と嘆かせていることは、この過程が、すべての先住民に例外なく進行すること、そして、開拓民の場合の“交換”は、アイヌの場合のような“本来的な秩序”としてではなく、単に先住民を懐柔して開拓を円滑容易に進めるための手段としてなされていることを、明らかにしているのです。












ばいみ〜 ミ
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カテゴリ: 宮沢賢治

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