ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.26


さて、ここで目先を変えて、

《狼ノ森》に関係する童話作品を見ておきたいと思います:狼森と笊森、盗森 狼森と笊森、盗森(携帯)

童話『狼森と笊森、盗森』は、生前刊行(1924年12月)の童話集『注文の多い料理店』に、「1921年11月」の日付で収録されています。

つまり、「小岩井農場」の半年前に書かれています。

宮沢賢治が、この童話を書いた動機は、小岩井農場の“成立史”を書こうと思ったのではないでしょうか。
小岩井農場を舞台とした口語詩作品を書く構想は、1921年11月当時からあったのではないかと思うのです。

それは、習作的な短い詩を、『冬のスケッチ』の短詩から始めて、いろいろと試み、次第に長い詩もできるようになって、自信を得たうえで、21年5月に、ようやく長詩「小岩井農場」の“スケッチ行”を行なったのです。

しかし、“歩行詩作”によって、現在の小岩井農場を本格的に描く前に、まず農場の前史を書いておきたいと思ったのではないでしょうか?

前史というと、ギトンなどは、この章の初めに《前注》として書いたように、資料データを集めて、創立者の事績から書き始めます。これが、ふつうの…凡人の書き方でしょうねえ‥w

しかし、賢治は、そういうやり方をとらなかったのです。

データとして集められるのは、創立者やら、運営やら方針やら成績やら‥要するに、農場を造って仕切る側の記録ばかりになるのは、やむをえないことです。

しかし、賢治が、まず書きたいと思ったのは、農場で働く人たち、──「パート7」に出てくる老農夫や、若い農夫、ミス・ロビンたちの側から、書きたかったのではないでしょうか?

また、農場内に限らず、小岩井周辺の“姥屋敷”“鬼越”といった地域もひっくるめて、この岩手山麓に、耕地が開墾され、村や部落が出来上がってきた、そのいちばん元になる人間と自然の交渉史を書いておく必要があると、思ったのでしょう。。。

ということになると、資料などは、まったくありません。

農場員や、地域の農民から聞き取りをしても、せいぜい1世代のことしか分からない。

そこで、むしろ、賢治の得意技である童話創作という手段で、自分の感覚のままに──と言っても、山々や鳥獣木石と“明滅”しながら得た心象を書くわけでして、作者ひとりの勝手な想像ではないわけです──書いたほうが、目的にかなっていることになります。

『狼森と笊森、盗森』は、こうして書き下ろされた小岩井農場の“開拓前史”なのだと思います。






. 小岩井農場略図(2)
↑こちらの地図ファイルの1枚目を、ごらんいただきたいのですが、

小岩井農場の北辺から鞍掛山の麓にかけて、
4つの「森」が並んでいます。

もう何度か説明しましたが、この地方の地名で「森」というのは、標準語で言うと、低い山ないし丘のことです。

いちばん南にあるのが《狼ノ森》(おいのもり)、‥そこから北へ向かって、順に、《笊森》(ざるもり)、《黒坂森》、《盗森》(ぬすっともり)と並んでいます。

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