ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
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9.3.19


ここで、「永訣の朝」読後の宮沢賢治と斎藤宗次郎の会話に話を戻しますと、

「叔母コトの死とその経緯をめぐる『家族組織、社会組織の不完全を嘆』く賢治の思い」
(a.a.O.)

とは、このような“不条理の狭間”で生涯を終えた琴子に対する思いであったはずです。

そして、さらにもう一つの問題が浮かび上がります。

琴子の弔問に来た2人のキリスト者に対して、瀬川周蔵は、キリスト教は浄土真宗と同じなのか?‥違うと言うなら、いったいどこが違うのかと、執拗に問い質していました。

すでに引用した『銀河鉄道の夜』ですが、琴子をモデルにしたと思われる「琴(ライラ)の宿」の「お姫さま」は、↓つぎのように描かれています(⇒:8.4.18):

「『あの森琴(ライラ)の宿でせう。あたしきっとあの森の中に立派なお姫さまが竪琴を鳴らしてゐらっしゃると思ふわ、お附きの腰元や何かが立って青い孔雀の羽でうしろからあをいであげてゐるわ。』

 カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。

 それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一その小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってゐるのはきっとその孔雀のはねの反射だらうかと思ひました。」
(初期形一)

「琴(ライラ)の宿」には、竪琴を鳴らす「お姫さま」を中心に、彼女を「青い孔雀の羽」で扇いでいる「腰元」たちがいると言うのです。

この「孔雀の羽」のモチーフが、カトリックの表章のひとつで、キリストの“復活”あるいは“永遠の生命”を象徴することは、すでに何度か述べました。

賢治が「琴(ライラ)の宿」を“孔雀”と結びつけていることは、生前の琴子とキリスト教との何らかの結びつきを暗示していないでしょうか。もしかすると、宗教性の高い人だった琴子は、成人してからキリスト教にも関心を持ち、あるいは信仰を持つに至っていて、その点でも、夫とのあいだに意見の相違を生じていたのかもしれません…

照井真臣乳は、周蔵の執拗な質問に対して、「不図何かに気が付いた様に」あわてて、「それは後日お話することに致しますとて」辞去したのでした‥‥

栗原氏が暗示している“斎藤宗次郎の知らない事情”とは、琴子は、小学校の恩師である照井に対してだけ、信仰を告白していたのかもしれません。

ともかく、1924年末に成った『銀河鉄道の夜』の「初期形一」では、「琴(ライラ)の宿」の「お姫さま」にしろ、ジョバンニの昇天と帰還の目印として輝く「琴の星」にしろ、琴子に関わるモチーフが、大きなウェイトを占めているのです。

そして、「永訣の朝」もまた、それを出版・公表する段階では、作者にとって、直接の題材である妹トシのみならず、琴子の不幸な死をも悼むものとしてあったと思われるのです。

この二人の近親者の死に対して、賢治が共通する思いを抱いていたと思われる点は、上で引用した書簡[193]からも拾うことができます。再度引用しますと:

「但し、退院後は、一遍に宅へは帰られないだらうと、医師が云ひます。途中、どこかで、休まなければならないだらうと思ひます。今度は、思ひ切って、大事を取らないと、又、元に戻ります。お父さまとも御相談の上で、又十日ばかり花巻の方へ戻るやうな、姑息な手段はとらないで、情実なしに、医師の意見通りにしないと、ことさんも、あんまりお気の毒です。今度は、充分ご相談の上、もう二度と、病気を起すことの無いやうに、お勧め下さい。」
([193])


↑文中の「花巻の方」は、花巻川口町の実家(宮澤善治家)ではなく、花巻町の婚家(瀬川家)という意味でしょう。すぐ婚家に戻っても「十日ばかり」で、また実家に返されてしまうというのは‥‥

こうした賢治の憂慮は、1919年にトシが東京の病院から退院した際に、賢治と父の間に交されたやりとりの場合と、よく似ています。

トシの予後について、主治医は暖地療養を勧めたので、賢治は、父もしばらく関東に転居して、トシと暖地で過ごすことを勧めるのですが、花巻で商店を構える政次郎氏に、そんなことをしている余裕があるはずもなく、ただちに戻って来いとの父の“命令”が下っています。
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