ゆらぐ蜉蝣文字


第9章 《えぴ》
22ページ/31ページ


9.3.11


以上、トシが遺した手記(もともと題名は無く、出版の際に『自省録』と題された)を長々と引用しましたが、この手記は、トシの死後の形見分けで末妹クニが受け継いだものと見られ、クニの令息・宮澤淳郎氏によって1989年に出版されました。

賢治も、トシの死後に、この手記を読んでいるのはまちがえないと思います。というのは、

「とにかく彼女が彼と離れねばならぬ事は自然であった。お互ひに人類愛とでも云ふべき大きな無私な公けな愛を抱くに堪えうるほど人格として生長しないうちは、性格の根本に、人生に対する立場に、共鳴しない点を見出す彼等が人間的の好意を持たうとする事は無理であり、相背いて各各自己に真実な路を別別に歩むのが当然の事ではなかったらうか?」
(『自省録』,p.359)

というトシの言葉は、賢治の『春と修羅』「小岩井農場・パート9」の:

. 春と修羅・初版本

59  ちいさな自分を劃ることのできない
60 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
61もしも正しいねがひに燃えて
62じぶんとひとと萬象といつしよに
63至上福しにいたらうとする
64それをある宗教情操とするならば

というパッセージに、はるかな反響をひびかせています‥

ここで、ぜひ考えてみたいのは、私たちは、賢治・トシ兄妹の関係を、どう理解したらよいか──ということです。

これまで、“宮沢賢治論”の中では、賢治・トシの関係は、周囲の世界からも人間関係からも隔絶させられた、額縁で切り取られた絵のような“ふたりの関係”を軸に、賢治の詩作品なり人間像なりを説明する傾向があったように思います。それは、賢治自身の作品の特性にも影響されるところが大きかったのかもしれませんが、‥その行き着く果ては、“近親相姦的相愛”“ふたりだけの隔絶された夢幻世界”などということになって、詩作品自体の理解のしかたを、非常に狭い範囲に押し込め、自由な鑑賞、あるいは作者の意図に沿った鑑賞を妨げてきたかもしれません‥

そうした賢治論のいわば‘常識’に対して、疑問でならないのは‥、それでは、ひるがえって、トシ自身は、どう思っていたのか?‥トシにとっては、兄が唯一の‘男性’だったのか?‥彼女は、恋をしたことがないのか?‥等々。。。

トシ、賢治の甥にあたる宮澤淳郎氏によって公にされたトシの『自省録』は、そうした疑問に答える第一級の資料と言ってよいものです。これによってはじめて、私たちは、トシもまたひとりの女性であり、恋の激情と耽美の思い、それが裏切られたことによる悲哀と苦しみの歳月を経てきたことを知るのです。

こうして、兄の側から一方的に見られ美化された像ではなく、トシ自身の等身大の自画像を目の当たりにした私たちは、“兄妹の関係をどう理解するか”という上の課題に対しても、自ずから解答に達しうるように思います。

切り込んで言えば、トシと賢治とは、それぞれの困難な恋に立ち向かう“同志”としての友愛の関係であったとは見られないでしょうか?

トシが HELL → LOVE と並べ直して、いびつな“ラヴ”の字と「曲つた十字架」を作った場面を、兄として回想し、そこで自分は「つめたくわらつた」と感じるのは、不器用というほかはないトシの恋愛の経緯を思い出して、いじらしく愛しく思うのと同時に、賢治自身の恋愛──その中心に嘉内との同性愛の経過があります──の“ぶきっちょさ”を思い返して、苦笑を禁じえないからだと思われるのです‥

十字架という表象は、盛岡でも日曜ごとキリスト教会に通っていた嘉内にも、日本女子大学でプロテスタント成瀬学長を通じてメーテルリンクやエマスンの思想に接していたトシにも、通じるものです。その十字架が「曲つ」ていること、また、その十字架のくぼみの中を砂がさらさらと流れつづけて、やがてその痕跡をも消し去ってしまおうとしていることは、保阪との絆が数々の経緯をへて、もはや取り返せないほど縁遠いものになろうとしていること、そして、トシとの絆もまた、トシの死によって、いまや決定的に喪われようとしていることに対応します:

. 春と修羅・初版本

88  (貝がひときれ砂にうづもれ
89   白いそのふちばかり出てゐる)
90やうやく乾いたばかりのこまかな砂が
91この十字架の刻みのなかをながれ
92いまはもうどんどん流れてゐる
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ