ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.4.8


. 春と修羅・初版本

29橋のらんかんには雨粒がまだいつぱいついてゐる
30なんといふこのなつかしさの湧あがり
31水はおとなしい膠朧体だし
32わたくしはこんな過透明な景色のなかに
33松倉山や五間森(ごけんもり)荒つぽい石英安山岩(デサイト)の岩頸から
34放たれた剽悍な刺客に
35暗殺されてもいいのです
36  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
37   (杉のいただきは黒くそらの椀を刺し)

雨上がりの橋を歩いていると、ぬれた橋板と川面から、靄のように「なつかしさ」が湧き上がってきます。
しっとりした空気を吸い込むと、古い記憶が甦ってくるようです。

「膠朧体」は、コロイド。
さきほどは、「下では水がごうごう流れ」と言っていましたが、こんどの「おとなしい膠朧体」は、瀞(とろ)のようです。
じっさいの川のようすは、→この画像のようで、《渡り橋》のすぐ下は、ゆったり流れています:画像ファイル:豊沢川

いずれにしろ、暗くなった川面は、固まったコロイドのように見えるでしょう。

「過透明」は、過冷却、過飽和などから類推した造語。“完全な透明”よりもさらに透明という意味(?!)‥ これに限らず、宮沢賢治には、科学的な限界を超えた“超越度数”の表現がときどきあります。たとえば、【第2章】の「真空溶媒」には、

「零下二千度の真空溶媒」

とありました。絶対零度(-273.16℃)より低い温度は、ありえないのですが☆。。。 もちろん、賢治はそれ(熱力学第3法則)を知らないわけではなく、知っていてあえて、科学を超越した世界を描こうとしているのです。

☆(注) 統計力学(熱現象を、原子・分子の運動として統計数学的に表現する理論)では、負温度(絶対零度より低い温度)を考えることができますが、これは、エネルギーの低い状態ではなく、レーザーを発生するような非常にエネルギーの高い状態だそうです。ともかく、賢治は、統計力学の負温度までは知らなかったと思われます。

「五間森(ごけんもり)」または、五間ヶ森は、作者が歩いている鉛街道を挟んで、松倉山と反対側にある標高569メートルの山:地図:大沢温泉〜松原 地図:大沢温泉付近 画像ファイル:五間ヶ森 画像ファイル:五間ヶ森(いちばん下)

↑頂上の平らな・特徴ある形の山で、このような、舟を伏せた形の山は、“船形山”などと呼ばれて、古代から信仰の対象でした。死者を乗せて他界との間を行き来する乗り物と考えられたのです。

「岩頸」は、地底(火山の火道など)で冷えて固まったマグマが、火山体の浸食によって露出したもので、釣り鐘形に尖った山を形成します。
ここでは、松倉山や五間ヶ森のことでしょう。

「石英安山岩」:「デイサイト」ともいう。火山岩の一種で、粘りけの強いマグマの成分。「岩頸」を造る代表的な岩石だそうです:画像ファイル:デイサイト

「剽悍な刺客」:「剽悍(ひょうかん)」は、すばやい上に、荒々しく強いこと。「剽悍な面構え」「剽悍なる熊〔北村透谷〕」「剽悍な遊牧民の一隊が、疾風の如くに襲うて來た〔中島敦〕」などの用例があります。強暴な暗殺者ということでしょう。

「松倉山や五間森…岩頸から/放たれた剽悍な刺客」とは、これらの山から下ろして来る強風、あるいは、落石のことでしょうか?‥むしろ、そのように合理的に解釈しないで、書かれているとおりに、強暴な殺し屋が襲ってくると読んだほうがよいと思います。
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