ゆらぐ蜉蝣文字
□第8章 風景とオルゴール
81ページ/219ページ
8.3.8
. 春と修羅・初版本
19けれども惡いとかいヽとか云ふのではない
20あんまりおまへがひどからうとおもふので
21みかねてわたしはいつてゐるのだ
22さあなみだをふいてきちんとたて
23もうそんな宗教風の戀をしてはいけない
24そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
25おれたちのやうな初心のものに
26居られる塲處では決してない
「両方の空間が二重になつてゐるとこ」とは、【第1章】の作品「春と修羅」の:
「すべて二重の風景」
に、ほかならないでしょう。
つまり、この現実界と《異界》とが、重なって存在するということです。
ただ、すでに「青森挽歌」の思索や、“サハリンの旅”を終えてきた作者は、
@現実界と《異世界》は、本来的には、たがいに他を認識できないしくみになっていること、
Aしかし、例外的な場合には「両方の空間が二重にな」り、《異世界》の姿が作者の感官に《心象》となって現れる──
というように、より整理された形で理解していることが分かります。
「宗教風の戀」が、その「両方の空間が二重になつてゐるとこ」だという意味は、賢治にとっても嘉内にとっても、観念的な《熱い》理想の追求は、良くも悪くも、超常的な《異界》感覚を伴っていたことを指しています。
ただ、それは、嘉内にとっては、厭世意識から耽美的・現世享楽的方向へ向かうものであったのに対し、賢治にとっては、遁世意識から禁欲的・霊感的な方向へ導く傾向があったのだと思います☆
☆(注) 菅原智恵子,op.cit.,p.55.参照
このスケッチでは、賢治は、その「両方の空間が二重になつてゐるとこ」は
25おれたちのやうな初心のものに
26居られる塲處では決してない
と言っているように、これからは、《異界》を見ることを避けて、より現実的な考えを持ち、現実生活に専念したいと望んでいるようです。
「おれたち」と言っていることが、この経験は賢治ひとりのものでなく、共に経験した相手がいたことを示しています。それは、やはりギトンの考えるところでは、保阪嘉内である可能性が最も高いと思うのです。
ともかく、このスケッチ「宗教風の恋」は、【第8章】の中でも、もっとも大きく禁欲的・現実的な方向に賢治の“振り子”が振れた軌跡だったと言えるでしょう。
.