ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.3.8


. 春と修羅・初版本

19けれども惡いとかいヽとか云ふのではない
20あんまりおまへがひどからうとおもふので
21みかねてわたしはいつてゐるのだ
22さあなみだをふいてきちんとたて
23もうそんな宗教風の戀をしてはいけない
24そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
25おれたちのやうな初心のものに
26居られる塲處では決してない

「両方の空間が二重になつてゐるとこ」とは、【第1章】の作品「春と修羅」の:

「すべて二重の風景」

に、ほかならないでしょう。
つまり、この現実界と《異界》とが、重なって存在するということです。

ただ、すでに「青森挽歌」の思索や、“サハリンの旅”を終えてきた作者は、

@現実界と《異世界》は、本来的には、たがいに他を認識できないしくみになっていること、

Aしかし、例外的な場合には「両方の空間が二重にな」り、《異世界》の姿が作者の感官に《心象》となって現れる──

というように、より整理された形で理解していることが分かります。

「宗教風の戀」が、その「両方の空間が二重になつてゐるとこ」だという意味は、賢治にとっても嘉内にとっても、観念的な《熱い》理想の追求は、良くも悪くも、超常的な《異界》感覚を伴っていたことを指しています。

ただ、それは、嘉内にとっては、厭世意識から耽美的・現世享楽的方向へ向かうものであったのに対し、賢治にとっては、遁世意識から禁欲的・霊感的な方向へ導く傾向があったのだと思います☆

☆(注) 菅原智恵子,op.cit.,p.55.参照

このスケッチでは、賢治は、その「両方の空間が二重になつてゐるとこ」は

25おれたちのやうな初心のものに
26居られる塲處では決してない

と言っているように、これからは、《異界》を見ることを避けて、より現実的な考えを持ち、現実生活に専念したいと望んでいるようです。

「おれたち」と言っていることが、この経験は賢治ひとりのものでなく、共に経験した相手がいたことを示しています。それは、やはりギトンの考えるところでは、保阪嘉内である可能性が最も高いと思うのです。

ともかく、このスケッチ「宗教風の恋」は、【第8章】の中でも、もっとも大きく禁欲的・現実的な方向に賢治の“振り子”が振れた軌跡だったと言えるでしょう。



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