ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.2.38


しかし、それにもかかわらず、宮澤賢治は、1931年には、陸中松川(岩手県東磐井郡東山町松川)で石灰岩抹の採掘・製造をしていた『東北砕石工場』の技師となって営業活動(農会などへの肥料用炭酸石灰の売り込み)に奔走し、病をおして過労を重ねた☆ために、同年9月、出張先の東京で倒れ、病床生活のまま2年後の死を迎えます。

☆(注) ギトンの見るところでは、『東北砕石工場』の勤務によって賢治が肺疾を増悪させたのは、過密な出張移動スケジュールのせいだと思います。乗り物での過密な移動スケジュールは、本人には自覚がないのに、身体に著しい負担をかけるので、健康な人でも身体を壊します。戦後のバブル時代に、労災過労死の原因となった勤務形態のトップでした。

不況で倒産寸前だった『工場』は、賢治の奔走のおかげで一時持ち直したようですが、そこまでがんばらなくてもいいのに‥と思われるほどの精力的なセールスが、賢治の死期を早めたことは否定できません。

おそらく、『工場』から招聘を受けたとき、賢治は、かつて自分が「雲とはんのき」で描いた「冷たいあやしい幻想を抱きながら/南の方へ石灰岩のいい層を/さがしに行」くという自画像との奇しい重なりに、運命を感じたのではないでしょうか?

自分の書いたものが、「やがて」いつかは「どんな重荷になつて‥償ひを強ひるかわからない」という言葉が、いまや現実となるのを感じ、それでも“運命”に背を向けることなく、その「重荷」を引き受けたのだと思います。

このような経過を見ても、作者賢治に「償ひを強ひ」たもの、──賢治の内なる声が、「どんな‥償ひを強ひるかわからない」と言って恐れたもの──は、国家でも社会でも他人でもなく、賢治の内なる“詩鬼”、原稿用紙から躍り出る“文字のこびとたち”の魔力だったのだと、ギトンは思います。

1923年の「雲とはんのき」の時点で賢治が向かって行ったのは、「南の方」、つまり震災で混乱する東京の方角であり、人と人との間でした。それは、かつて、『春と修羅』の最初の時期に、人里に背を向けて進んで行った雪と雲に覆われた高山の“北方”とは、方角的にも意味的にも正反対の方向でした。

価値と世界観の混乱のただ中に入って行って、新たな思想をつかみ取りたい──そんな作者の気持ちが表現されています。

「雲とはんのき」は、前半のみずみずしい川岸の潤いや、明るい秋の風光を打ち消すかのように、後半では、空は掻き曇り、沿線の豆畑(近景)も山々(遠景)も、悲しみにうちふるえています。

にもかかわらず、作者は、遥か彼方の、もっと恐ろしいことがありそうな空間を目指して進んでいるのです。

その怪しげな《異空間》──震災で混乱した中枢都市──に入り込んで、真白な石灰岩を掘り出し、人々に届けようとしています。

その道行きが、危険を伴うものであることは、作者の内なる声が警告していますが、それでも作者はなお、“文字のこびとたち”に衝き動かされるようにして進んで行くのです。

ただ、いまの賢治は、数年前のような狂信に動かされるようなことは、もはやありませんし、『春と修羅』当初の《熱い》詩情からも、距離をおいています。

たしかに、秋枝氏が指摘するように、「男らしい」線を刻む方向からは、目ざましい転換を遂げたと言ってよいのです。



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