ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.6


しかし、「宗教風の恋」は、「小岩井農場・パート9」の末尾に書き込まれた“反恋愛論”(3.10.16 “反恋愛論”)と同様に、いわば審美・官能そのものの否定にもなりかねない考え方でして、「あらゆる透明な幽霊の複合体」(序詩)である作者の中にいる意識のうちでも、極端なものです。これが、『春と修羅』の最後の章で、作者が結論的に抱いた思想だとは、ギトンはどうしても思えないのです。

「燃えて暗いなやましいもの」「情炎的なもの」「暗く重苦しい情欲的な心情」などは、詩人、あるいは広く芸術家としての賢治にとって、「すきとほつた」「聖(きよ)い」「風や光や雲や水」と同様に、無くてはならないものだと思うのです。《心象》を「そのとほり」にスケッチしようとする“科学者”としての賢治が、それらの一方だけを記録して他方を捨て去るとは思えないのです。

また、《異界》を《見る者(ヴォワイヤン)》としての賢治にとっても、この自己否定は致命的です。賢治の見る《異界》は、いやおうなしに見せられるものであり、選択の余地は無いと言ってよい。このことは、栗谷川虹氏が折りにふれて強調することです。

つまり、《異界》から来る「なやましいもの」を拒否するならば、《異界》のすべてを拒否することになってしまいます。

ギトンは、【第8章】には、自然観、宗教性、“熱い”炎の情念と、“冷たい”醒めた意識、そういったものの間の相克が、これまでよりも意識的に、高度に、詩的イメージの衣をまとって繰り広げられているのだと思います。「宗教風の恋」は、そうした「あらゆる透明な幽霊」の間での試行錯誤の過程で立ち至った、ひとつの極端な振れにすぎないと考えます。そして、

「さあなみだをふいてきちんとたて
 もうそんな宗教風の戀をしてはいけない
 そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
 おれたちのやうな初心のものに
 居られる塲處では決してない」

という「宗教風の恋」の末尾の語りかけに対しては、天沢氏とともに、

「《修羅のなみだはつちにふる》という詩句にさながら沿うごとくにあふれ流れていたあの涙、詩の言葉の真性の影を、こんどは《さあなみだをふいてきちんとたて》などと、そんなことですむ涙であったのか」


☆(注) 天沢退二郎『《宮澤賢治》論』,1976,筑摩書房,p.284.

と問い返したいと思います。

なお、恩田氏の「対自然観」という捉え方にも、注釈が必要かもしれません。

宮沢賢治が“自然”を見る眼は、単なる風景の鑑賞ではありません。風景の向こう側には、ほとんどつねに、《異界》が見通されているのです。いわば、《異界》からの光によって風景を見ている、あるいは、風景に向けられた賢治の眼は、風景を透して、その向うにある《異界》を見ている──と言ったらよいかもしれません★。それが、賢治の《心象》です。

★(注) ただ、宮沢賢治の《異界》視は、心霊学、神秘主義、オカルト的な超能力などとは違うと、ギトンは思っています。“見えないもの”の存在や姿を、超感覚的に会得するのが神秘主義です。しかし、賢治はあくまでも、“見えるもの”“見えないはずなのに見えてしまうもの”を、見たままに信じるのです。

逆に、そうした《異界》を《見る眼》(恩田氏の言う「審美性」)を否定しようとするのは“現実意識”ですが、それは、恩田氏の言うように、多くの場合、宗教性と繋がっています。賢治が生まれ育った宗教的環境は、開明的な《浄土真宗改革派》のそれでした。賢治は、両親から、「怪力乱神を語るな。」と、つねづね戒められていたと云います。《異界》視は、彼岸と此岸をくっきりと分け隔てる正統的な真宗の信仰とは、矛盾するのかもしれません。

《見者》としての賢治は、そうした信仰に飽き足らないがゆえに、『法華経』に活路を見出だし、日蓮宗に向かったとも考えられます。

この点は、このあと、秋枝美保氏の議論を検討する際に、ふたたび立ち返って来ることになります。
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