ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.2.30


ところが、このような「手宮文字」“解読”を包む世論の熱気は、1920年代に入ると急速に衰えてしまいます。

1922年の摂政宮(せっしょうのみや。のちの昭和天皇)の北海道行啓のさいには、手宮洞窟も見学先に含まれていましたが、見学に先立って、『北海道タイムス』『小樽新聞』等を通じて、「手宮文字」“解読”説のでたらめさを暴露し否定するキャンペインが張られ、「牽強付会の甚だしいもの」とする地元史家の論文などが掲載されました。

そして、摂政宮の見学自体は、

「先人の遺せし古代文字を御感興深げに」
(7.12.小樽新聞)

などの見出しで、あたりさわりのない中立的な報道がなされました。

一方、『国柱会』は、この摂政宮行啓に合わせ、小樽を「『国体擁護』の、また『国体宣揚』の拠点」(秋枝,op.cit.,p.324)とすべく、自動車宣伝隊を繰り出すなどして「日蓮主義大講演会」を中心とするイベントを大々的に開催しました。
しかし、それらは、地元マスコミからは完全に無視されており、会内信者だけの熱狂に終ったようです。





このように、1920年代には、10年代の「手宮文字」“解読”を中心とする、熱狂的ではあっても空想的で、杜撰な非論理的基礎に立つナショナリズムは、急速に飽きられてゆき、

これに対応して、政府のほうも、摂政宮のスター化☆を中心として皇室イメージを刷新し、近代精神を吸収した新世代にも受け入れられるようナショナリズムの建て直しを図っていたのです。

☆(注) 摂政宮の北海道行啓は、「黒モーニングの瀟洒な御装いで」日々の見学先を移動し、その中には、白老アイヌ部落の訪問なども含まれています。

『国柱会』の熱狂は、1922年の段階では、もはや“旧いナショナリズム”として忘れ去られる運命にあったといえます。

それでは、こうした経過を踏まえた1923年の時点で、宮沢賢治は、「手宮文字」を、どう見ていたのでしょうか?

賢治が「手宮文字」に言及した資料は、この「雲とはんのき」の部分以外に存在しないので、ここを根拠に推測するほかはないのですが、

. 春と修羅・初版本

28 手宮文字です 手宮文字です

↑この行だけが“ですます調”になっていて、前後の詩行とは明らかに調子がちがうのが目につきます。
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