ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.2.25


保阪の困難は、学籍を奪われたことが原因であり、そのまた原因は“筆禍”でした。25行目の「刻んだその線」☆も、固いものに図か字をきざむ行為を思わせ、それが「重荷にな」る、「償ひを強ひる」とは、“筆禍”か、それに類する非難を世間から浴びるようなことを連想させます。

☆(注) 《初版本》発行後の《宮沢家本》で推敲された形は、「刻んだその劃」。「劃(かく)」は、現在は常用漢字の「画」で代用されていますが、漢字の“かく”、つまり漢字を構成する線や点のこと。たとえば、「田」は5劃です。

このように考えるので、ギトンは、ここでは基本的に秋枝美保さんの説に拠りたいと思います:

「『ひのきのひらめく六月に/おまへが刻んだその線』とは、心象スケッチそのものを指しているのであろうが、この句は、その自分の描いた心象スケッチに『男らしい償ひ』を強いられるかもしれないという危惧を表明しているのである」
(秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,pp.70-71.)

「『手宮文字』解読にまつわる世論の展開〔…〕それは、『書かれたもの』がいつのまにか『男らしい償ひ』を強いる、〔…〕つまり、様々な言説が体制に従って解釈され、その言説を、また社会的に
〔体制に従った解釈のとおりに──ギトン注〕実行するように、書いた者の精神を呪縛し始めるということである。」(op.cit.,p.81.)

★(注) 幸か不幸か、『心象スケッチ 春と修羅』は、世間に注目されなかったので、著者に「男らしい償ひを強ひる」ことにはならなかったのですが、遺稿の「雨ニモマケズ」は、まさに賢治が危惧したとおりの経過をたどったし、現にたどりつつあるのではないでしょうか?

つまり、秋枝氏の議論の要点は、↓28行目の「手宮文字」が、24-27行目のカッコ書きを理解する鍵になるということです。

. 春と修羅・初版本

24  (ひのきのひらめく六月に
25   おまへが刻んだその線は
26   やがてどんな重荷になつて
27   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
28 手宮文字です 手宮文字です

ただ、秋枝説では、24行目の「ひのきのひらめく六月」とは何を指すのか?‥この点はまだ十分に解明されていないきらいがあります。
「六月に/おまへが刻んだ」と言うからには、全年にわたって作品がある《心象スケッチ》すべてではなく、6月に「刻んだ」何かを指しているのではないか‥と思うのは、むしろ自然な読み方だからです。

そこで、問題は2つあることになります:

@ 「ひのきのひらめく六月」とは、いつのことか?‥あるいは、「六月に‥刻んだ」何を指しているのか?

A それが、「重荷になつて‥男らしい償ひを強ひる」とは、どういうことか?‥そもそも、「男らしい償ひ」とは、何か?

そして、Aについては、「手宮文字」がヒントになって、ある程度分かるが、@は、そうではない──ということのようです。

そして、ここでは、秋枝説に沿って‥という前提で考えてみたいので、
@についても、宮沢賢治が《書いたもの》の中から探してみることにします。

そこで、以下の順序としては、(T) まず@について候補を挙げて検討した上で、(U) Aについて、「手宮文字」をヒントに考察し、最後に、(V) @Aを総合検討することにしたいと思います。


(T) 「ひのきのひらめく六月」について。 

「雲とはんのき」で作者が回顧の対象としている期間は、高等農林を卒業した1918年から以降と思われますので、「六月」についても、この期間を検討すれば足りるでしょう。

そうすると、まず、1918年6月には、同人誌《アザリア》第6号が発行され、賢治は、散文〔峯や谷は〕を載せています:〔峯や谷は〕
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