ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.2.20


. 春と修羅・初版本

09沼はきれいに鉋をかけられ
10朧ろな秋の水ゾルと
11つめたくぬるぬるした蓴(じゆん)菜とから組成され
12ゆふべ一晩の雨でできた
13陶庵だか東庵だかの蒔繪の
14精製された水銀の川です

これを、

「水が光る きれいな銀の水だ」
(白い鳥)

などと比較すれば、ここで「水銀の川」とした意味も明らかでしょう。賢治にとっては、「水銀」は、「つめたくぬるぬるした」滑(なめ)のイメージとつながっているようです(じっさいの水銀には、粘性はありませんが)。

もうひとつ注意したいのは、さきほどの「《北ぞらのちぢれ羊から〔…〕」の引用と、↑この地の文(字下げ無し)との対比です。

かつて賢治が夢中になっていた田中智学の“日蓮主義”は、教義と信仰のままに‘超人’となって“理想世界”の実現をめざすものでした。宮澤賢治の当時の信仰の観念性(スローガンとプロパガンダの単純な信じこみ)が、それをさらに助長していました。

そこには、“自己”に対する・落ち着いた深い洞察はありません。

しかし、いま、『春と修羅』の《心象スケッチ》で試みられているのは、ありのままの赤裸々な自我──邪な性欲や瞋恚、諂曲に揉まれたその姿を、心理のひだに至るまで見つめ肯定したうえで、あらためて「まことのねがひ」☆──自分本来の理想の方向を模索して行くことなのです。

☆(注) Vgl.:「みづうみのそこ、/さかなのねがひはかなし/青じろき火を点ずれど/たちまちにわれそを封じらる/みづうみのそこ、/まことはかなし」(『冬のスケッチ』,七,3,下書稿・手入れ@(1))

. 春と修羅・初版本

15アマルガムにさへならなかつたら
16銀の水車でもまはしていい
17無細工な銀の水車でもまはしていい
18   (赤紙をはられた火薬車だ
19    あたまの奥ではもうまつ白に爆發してゐる)
20無細工の銀の水車でもまはすがいい

ギトンは、以前から、このスケッチを読んでいて15行目まで来ると、なにか異和感を感じて躓いていました。

ここで「水車」が出てくるのが、なにか唐突に感じられるのです。

明らかに、14行目までとは調子がちがうのです。20行目の「まはすがいい」という、突き放したような、他人事にするような、‥あるいは、“勝手にしろ!”と戯けているような言い方に向かって、傾斜して行くおもむきです‥

そう考えると、「アマルガムにさへならなかつたら」にも、からかいの気分が感じられます。



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