ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.4


つまり、もともとの《心象スケッチ》には、完結した詩作品としての構造や“こしらえ”の工夫はほとんど無く、むしろあえてそうした作為を加えないようにしていたふしがあります。

このような方法で書かれた初期の《心象スケッチ》は、したがって、どこまでも延々と続いて行く長詩か、さもなければ、“流れ”の一瞬を捉えた短詩の形になりやすかったと言えるでしょう。

これに対して、【第5章】から増えてきた中篇詩には、たしかに、恩田氏が指摘するように、一個の完結した作品として構成しようとする意識が、しだいにはっきりと感じられるようになります。

たとえば、【第8章】に含まれる【85】「一本木野」(⇒春と修羅・初版本)について、小沢俊郎氏は、次のように解説します:

「この詩の構成は明快である。18行までが外景で、22行以下が内景、その間括弧でくくられた三行ずつの二部分はかしわの木への呼び掛けである。外景と内景がぴったりと前後に二分されているという構成である。」


☆(注) 小沢俊郎『薄明穹を行く』,1976,学藝書林,p.69.

しかし、その一方で、意識の相克については、どうなのでしょうか?

たとえば、【第3章】「小岩井農場・パート9」のようにはっきりと書いてあれば、誰の目にも、意識の葛藤・相克が明らかです:

. 春と修羅・初版本

「ユリアがわたくしの左を行く
 ペムペルがわたくしの右にゐる
 ……………はさつき横へ外それた
 あのから松の列のとこから横へ外れた
   《幻想が向ふから迫つてくるときは
    もうにんげんの壊れるときだ》
 わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
    〔…〕
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
   《あんまりひどい幻想だ》
 わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
    〔…〕
 さつきもさうです
 どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
   《そんなことでだまされてはいけない」

雨の中に《異界》の存在を透視しようとする作者の意識に対して、内心の深層に潜む超自我の声(字下げ《 》付き)が、警告を発します。作者は、

「わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ」

「わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ」

と言い返して、《異界》視を続けようとしますが、やがて限界が来ます。。

【第8章】では、↑このような分かりやすい形で葛藤が描かれることは、もはやないようです。

恩田逸夫氏は、このような意識の葛藤は、【第8章】では沈静化しているのだとします。

このころ作者は、「人間社会に対する現実的関心」を持ち始めたので、これまでの「感性的な傾向」を反省し「苦悩を一応割り切る」ことによって、「やや心の平静を得られるようになった」のが、【第8章】の諸篇を書いた心境なのだと。。。☆

☆(注) op.cit.,pp.208-215.

しかし、他方で、恩田氏は、同じ論文の他の箇所では、【第8章】における意識の葛藤を、「対自然観」の葛藤として捉え、問題にしているのです:

「この詩章でも、最初に掲げられている『不貪欲戒』をはじめとして、『火薬と紙幣』およびそれに続く『過去情炎』や『一本木野』は、いずれも自然を素材としているばかりでなく、自然に対する考え方そのものが主題とされている。だがこれらはみな単純に自然を享受しているのではなくて、いずれも条件づきである。そこには、素直な自然嘆賞を阻止する何かが存在するのである。〔…〕自然の限りない魅力に対しても、それを『不貪欲』という『戒め』の形で表現しているのである。」
(p.207)
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