ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.13.9


. 『毒蛾』

「あかりをつけてゐる家があるとそのおぢいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。

 『家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。』その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇に消えました。

 この人はよほどみんなに敬はれてゐるやうでした。どの人もどの人もみんな叮寧におじぎをしました。おぢいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。

 『あの人は何ですか。』私は一人の町の人にたづねました。

 『撃剣の先生です。』その人は答へました。

 『あの床屋のアセチレンも消されるぞ。今度は親方も、とても敵ふまい。』私はひとりで哂ひました。」

↑ここには、短歌群や『春と修羅』で検証してきた・《熱した情念》から《冷たい精神》への転換を象徴する照明器具のモチーフが、非常に顕著に現れています。

ここでは、その象徴体系は逆に、“毒蛾騒動”によって生じた《冷たい精神》から《熱した情念》への反動・後退を示しています。
町から、すべての「電燈」が消され、青い炎の「アセチレン・ランプ」も無理やり消されてしまい、「黄いろの大きなラムプ」と焚火の「まっ赤な火」だけが町を照らし出します。これらは、赤〜黄系の裸火であり、ゆらめく炎と夏の星座が揺れる街路は、「昔の印度」「南国の夏の夜」を思わせます。

第1次大戦を契機とした日本の“南方進出”を象徴するような・この風景を演出するのは、「四本の鯨油蝋燭」を捧げ持った「頑丈さうな変に小さな腰の曲った」老人です。この呪術師のように気味悪い老人は「撃剣の先生」であり、町の人々から異常に敬われています。

ここには、徴兵制度と軍隊による統制支配が国民に浸透し、燃え上がる炎のような“海外進出”の夢を見させている・当時の鬱屈した社会状況が、如実に反映していると言わなければなりません。
また、この構図を、「イーハトブ」への地名変換とともに提示し、なまなましく描く作者の内心には、そうした社会に対する諷刺の意図が明らかに窺えます☆

☆(注) 語り手が「文部局の視学官」だから作者に諷刺の意図がないとは言えません。これは“信用できない語り手”という手法です。冒頭で、語り手が、「私が行くと、どこの学校でも、先生も生徒も、たいへん緊張します。」と誇らしく述べ、上の引用の最後で、『あの床屋のアセチレンも消されるぞ。今度は親方も、とても敵ふまい。』と語り手が述べて「ひとりで哂」うのは、権威主義的支配の体現者自身に露骨に語らせることによって、権威主義を諷刺的に描いているのです。

これまで折りに触れて指摘してきましたが、宮沢賢治という詩人は、最近一部で誤って(あるいは悪辣な政治的意図の下に)喧伝されているようなファシズムへの先駆けなどではなく、むしろ逆に、軍国主義へと傾斜して行く当時の社会の危険性を鋭く感じ取り、これを、童話と《心象スケッチ》という・きわめて‘控え目’な・隠れた形で表現した“良心的批判者”であったのです★

そして、“イーハトーブ”という呼称は、少なくともその使用の初期においては、作者のそうした社会批判・文明批判の姿勢を支える言葉だったのです。。。

★(注) 『毒蛾』に続く“イーハトーブ”の使用例である『氷河鼠の毛皮』にも、“熱い炎”のモチーフが現れます:「そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。/窓は月のあかりでまるで螺鈿のやうに青びかりみんなの顔も俄に淋しく見えました。/『まつくらでござんすなおばけが出さう』ボーイは少し屈んであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。/『おや、変な火が見えるぞ。誰かかがりを焚いてるな。をかしい』/この時電燈がまたすつとつきボーイは又/『紅茶はいかがですか』と云ひながら大股にそして恭しく向ふへ行きました。」この「かがり火」は、赤軍兵士を象徴する“白熊の匪賊”が現れる伏線なのですが、ここには、『毒蛾』とは逆の方向にある・もう一つの危険性──社会主義独裁から粛清政治へ至る危険性──が示唆されています。



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