ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.12.9


. 春と修羅・初版本

36とにかくわたくしは荷物をおろし
37灰いろの苔に靴やからだを埋め
38一つの赤い苹果(りんご)をたべる
39うるうるしながら苹果に噛みつけば
40雪を趣えてきたつめたい風はみねから吹き
41野はらの白樺の葉は紅(べに)や金(キン)やせはしくゆすれ
42北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
43  (あれがぼくのしやつだ
44   青いリンネルの農民シヤツだ)

「灰いろの苔」は、さきほどの地衣類。「靴やからだを埋め」られるということは、相当ふかふかに厚く茂っています。リンゴは持参したものでしょう。

「うるうる」:賢治作品にしばしば現れる言葉ですが、小野隆祥氏によれば☆、これは岩手県の方言で、花巻での語感は、「みずみずしい、ういういしい」だそうです。

☆(注) 小野隆祥「宮沢賢治作品の心理学的研究」,p.25, in:『啄木と賢治』,10号,1977.10.,みちのく芸術社.

「うるうる」と語源の近い言葉として、“うるむ”“うるんだ”“うるおう”などが考えられます。

宮沢賢治の「うるうる」の用例で、おそらく最も有名なのは、童話『どんぐりと山猫』の冒頭近くにある↓つぎの部分です:

「けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすつかり明るくなつてゐました。おもてにでてみると、まはりの山は、みんなたつたいまできたばかりのやうにうるうるもりあがつて、まつ青なそらのしたにならんでゐました。」

雫石出身の詩人・母木光(儀府成一)氏は、この部分を引用しながら、雫石(鶯宿)から見る《七ツ森》について、次のように↓書いています:

「〔…〕ぐっと手前には、大きいのと中ぐらいのと、という感じで、なだらかな七つ森が、『たったいまできたばかりのやうにうるうるもりあがって』指呼の間にいつも目にきました。」

「〔…〕もうちょっとで手がとどきそうに見える、こんもりとして丸い七つ森のみどりが、どんなに美しく新鮮に映ったか、私はこれらの山々や森を、日々どんな思いで眺めくらしたか、とても書きつくせるものとも思えません。」


★(注) 儀府成一『人間宮澤賢治』,1971,蒼海出版,pp.10-11,14.

『どんぐりと山猫』の舞台が《七ツ森》かどうかは分かりませんが(早池峰山麓の河原の坊付近とする説が有力です)、これらの叙述の対応から推測すると、「うるうる」の意味は、“できたての、新鮮で綺麗な、こんもりとした、丸く盛り上がった”──というニュアンスになります。
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