ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.11.12


. 春と修羅・初版本

22こんなあかるい穹窿と草を
23はんにちゆつくりあるくことは
24いつたいなんといふおんけいだらう
25わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
26こひびととひとめみることでさへさうでないか

「磔とでも取り替へる」、つまり、原野を半日散策させてもらうのと引き換えに磔になっても構わない──は、大げさかも知れませんが、作者としては実感だろうと思います。というのは、現在この原野は自衛隊の演習場になっていて、無許可での立ち入りは禁止されています。当時は陸軍の演習場だったはずです。勝手に入り込んで、流れ弾が当たらないとも言えません。生命と引き換えになってもよい、という作者の壮語に、私たちは、詩人の誇り高い矜持を見るべきです。

ちなみに、この部分を禁欲的なニュアンスで読むのは誤りです。作者は、

 「穹窿と草を/はんにちゆつくりあるくこと」 > 「はりつけ」

 「こひびととひとめみること」 > 「はりつけ」

と言っているのであって、原野散策と恋の間の優劣については、何も言っていません。

いや、それどころか‥、もし字句にこだわって読むならば、原野の散策は、半日できなければ命に換えるには惜しいが、恋人は、“一目会う”だけでも命に換えてよい、と言っていることになります☆。つまり、あきらかに、

 「こひびと」 > 原野の散策

です。

☆(注) なお、この「こひびととひとめみること」に関連して、たとえば、栗原敦氏が、「第四梯形」の「青い抱擁衝動」「みたされない唇」、「過去情炎」のキス、そして「一本木野」の「ひとのねがひ」(7行目)や「くちびるのあと」(35行目)を、「青春の異性憧憬」ないし「抽象的な憧憬としてよりも、むしろ具体的な大人の恋愛経験を踏まえて」の表現だとしている点は賛成です。しかし、「これを否定し、止揚して‥自然との合一による浄化の理念が打ち上げられる」(栗原,op.cit.,pp.106-107)としている点は、そう考えなくてもよいと思います。「一本木野」で、作者は、故郷の《大地》への思いを語っているのであって、人に対する恋や性愛(ないしその代償行為)を語っているわけではないからです。

さらに言えば、

26こひびととひとめみることでさへさうでないか

という言葉遣いは、いかにも無骨な田舎者のような、あるいは恋愛未経験な中学生のような感じを与えます。(思わず頬がゆるんでしまいますw)

賢治は、これを意識して書いていると思います。つまり、あえて紳士淑女の、あるいは美男美女の恋物語から距離を置いて、不細工で純な恋愛のイメージをこれに対置しているのです。ここにも、“農村詩人”としての作者の矜持が芽生えていると思います。

繰り返して言うと、「ひとめみることでさへ」とは、あくまでも「さへ」であって、「ひとめみる」以上のことをするなとか、しないで我慢するとか言っているわけではありません。しつこく言いますが、これは、宮沢賢治を誤解しないためには基本的なことだと思います。


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