ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.16


田中智学の“日蓮主義運動”は、理想の実現の場を、天皇制国家に、世界征服をもくろむ権力の上に定めていたわけですが、宮沢賢治は、いま、そこから距離をおいて、「イーハトブ」☆に実践の場を定めたと言えます。

「法華経の曼荼羅を実現する場として、智学の定めた『国家』ではなく、賢治自身の実践の場がここに初めて定められたと考えられる。そこで発想されたのが『イーハトブ』という理想郷であったと思われるのである。〔…〕実践の場として岩手県という県土、また地方協同体を設定し、そこに『ありうべき岩手県』である『イーハトブ』を構想したということになろう。」
(秋枝,op.cit.,p.328)

☆(注) しかし、「イーハトブ」あるいは「イーハトヴ」という語の初出は、1923年4月に新聞掲載された童話『氷河鼠の毛皮』であり、『春と修羅』収録の【87】「イーハトブの氷霧」は、これにつぐ使用例です。表記は、「イーハトヴ」が最初で、『氷河鼠の毛皮』は、“シベリア出兵”を意識しつつ、ソビエト赤軍と思われる匪賊と長距離列車の乗客たちとの交渉を描いたものです。賢治は、この時点ではまだエスペラント語を知りませんでした。したがって、「イーハトヴ」の語源は、「いはて(岩手)」にロシア語のアクセントと生格語尾(-ov)をつけたもので、「ベーリング」などと同様に北方の架空地名として案出されたものだと思います。悪役の成金紳士が「こいつがイーハトヴのタイチだ」と呼ばれていることからも、当初は、理想郷というような意味は無かったと思われるのです。


以上、秋枝氏の行論から、【第8章】の構想にかかわる部分を拾ってまとめました。

『宮沢賢治の文学と思想』自体は、さらに広範な内容を含んでいるのですが、関心のある方は、ぜひ直接、この本を手にとって読んでみられるようお勧めします。安い本ではないですが、最寄りの公共図書館に購入希望を出すという手もあると思います。

ところで、この本は、最終的には「序詩」の同時代的解釈を目的とする分析でして、【第8章】を主テーマとするものではありません。したがって、「雲とはんのき」を除いては、【第8章】の個別作品を立ち入って分析してはいません。あくまでも、大きな流れの把握に主眼があります。

そこで、恩田氏以来の個々の論点については、十分に解明されていない面もあります。

たとえば、“意識の葛藤”については、諸作品にどのような形で現れているのでしょうか?‥秋枝氏が強調する《熱い》情念から《冷たい》精神への変貌、ファナティズムからの覚醒、「男らしさ」の神話からの脱却などは、“意識の葛藤”を伴わずには遂行されえないと思われるからです。「透明な幽霊の複合体」である作者の自我は、もろもろの意識、感情、考え方のあいだを、どのように揺れ動いたのでしょうか?‥


秋枝さんは、1918-21年の書簡を引用して、かつて賢治には、ナショナリズムや“男らしさ”への憧れがあって、それがもとになって狂信的に“日蓮主義”に近づいて行った★と分析しているわけですが、

★(注) 調べてゆくと、『国柱会』が狂信的というよりも、あるいはそれ以上に、宮沢賢治はもっと狂信的になって近づいて行ったように思えます。東京出奔の際の『国柱会』本部での“冷たいあしらい”も、狂信的すぎるのが来て迷惑だ(笑)‥とウザがられてるように見えてきます。

そういう流れは、ぼくらゲイの観点からも、なんとなく分かります。“男らしい男”に、憧れる面があるんですね。人によっては、それが政治志向に結びつくこともある。社会全体で国家主義が宣揚されていた時代には、いま以上にナショナリズムの方向には流れやすかったと思うんですね。

ただ、書簡にも、宗教的なファナティズムはあからさまに書かれていますけど、それが、国家主義や“世界征服”へは、あまりはっきりと発展して行ってないんです。

『春と修羅』の詩篇の中では、ちょっとだけ、それらしい回想的なのが見つかるんですが:

. 春と修羅・初版本

「このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると
 かんがへたのはすぐこの上だ
 じつさい岩のやうに
 船のやうに
 据えつけられてゐたのだから
 ……仕方ない」
.
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