ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.5.14


. 春と修羅・初版本

43空氣の透明度は水よりも強く
44松倉山から生えた木は
45敬虔に天に祈つてゐる
46辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
47  (どうしてどうして松倉山の木は
48   ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
49  あのごとごといふのがみんなそれだ)

「松倉山から生えた木」が、静かに天に向かって「祈つてゐる」。そして、「赤いすすきの穂」は、「辛[かろ]うじて‥ゆらぎ」、と言っているように、激しく吹いていた強風は、いま、一時的にか凪いでいるようです。

しかし、作者の敏感な《心象》の耳は、高い頂の木々が上空の風にあおられている「ごとごといふ」音を聞き逃しません……

‘大空には軍靴が響き、地下には弾薬が「息を殺し」ている’この《心象》世界で、「松倉山から生えた木は/敬虔に天に祈ってゐる」「どうしてどうして松倉山の木は/ひどくひどく風にあらびてゐるのだ」……ロシア革命干渉の‘シベリア出兵’もようやく撤収した当時でしたが、作者の感性は、この国の行く手に不穏な気配を感じていたのではないではないでしょうか。

その中で、わずかに揺らいでいる「赤いすすきの穂」は、何を示すのか?‥ギトンには、着実に前進する「散兵」と、崩れ落ちようとする「弾塊」の下で、詩人が守ろうとする繊細な感性のように思われるのですが‥

. 春と修羅・初版本

50呼吸のやうに月光はまた明るくなり
51雲の遷色とダムを超える水の音
52わたしの帽子の靜寂と風の塊
53いまくらくなり電車の單線ばかりまつすぐにのび
54レールとみちの粘土の可塑性
55月はこの變厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる

「呼吸のやうに月光はまた明るくなり」‥「いまくらくなり」‥と、月を隠して過ぎる雲の動きによって、明暗がたえまなく交代します。「雲の遷色」も、その影響でしょう。

「ダムを超える水の音」──栗原敦氏は、松原発電所のダムと推定していますが、ギトンもおそらくそうだと思います::地図:大沢温泉〜松原 地図:江釣子森、草井山

松原発電所だとすれば、作者は、もう谷間から出て、頭上には、広い平野の夜空がひろがっているはずです。星空を、「雲の遷色」:濃淡の雲が通り過ぎていきます。

52行目は、《菊池本》では:

「わたくしの黒い帽子の静寂となまぬるい風の塊」

と、「なまぬるい」が加筆されています。風は収まって来ていますですが、「變厄」は続いています。暗くなって、風がやむと、不吉な「なまぬるい風の塊」が作者を囲繞します。

「変厄」は、辞書にはありませんが、“不吉な異変”という意味でしょうか‥
月が「不思議な黄いろ」になって、異常を告げています。

「電車の單線」:《電気軌道》の線路は、道の片側に敷設されています。月が陰った闇の中に、2本のレールと、未舗装道路の・でこぼこに固まった靴や轍(わだち)の跡だけが、辛うじて見えます。

「可塑性」は、力を加えて変形させると、変形したままになる性質のことで、“弾性”の反対概念です。雨のあとの泥の上に残った足跡などが、「可塑性」の例になります。



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