ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.5.2


. 春と修羅・初版本

01風が偏倚して過ぎたあとでは
02クレオソートを塗つたばかりの電柱や
03逞しくも起伏ずる暗黒山稜や
04  (虚空は古めかしい月汞(げつこう)にみち)
05研ぎ澄まされた天河石天盤の半月

「クレオソート」は、木材に塗る防腐剤の黒い液体:画像ファイル:クレオソート。正露丸の匂いがします。

03逞[たくま]しくも起伏[す]る暗黒山稜や

山並みは、もう真黒なシルエットになっています。日没から30分ほど経っているので、あたりはだいぶ暗くなっています。

「月汞」:「汞」は水銀のこと。水銀のような月光が、そらを満たしています。

5行目は:〈「研ぎ澄まされた天河石」である、「天盤の半月」は。〉…という意味です。

「天河石」(アマゾネス)は、微斜長石(KAlSi3O8)が微量の鉛を含んで青緑色を呈している鉱物:画像ファイル:天河石

つまり、青っぽい月です。

「天盤」すなわち虚空は、水銀のような「古めかしい」月光に満たされ、
そこに、研磨された天河石、すなわち半月が、掛かっています。

. 春と修羅・初版本

06すべてこんなに錯綜した雲やそらの景觀が
07すきとほつて巨大な過去になる

「巨大な過去」とは、宇宙の始原にまでさかのぼる気の遠くなるような巨大な時間です。

さきほどまで、「キャルセドニ」のようにぐちゃぐちゃに錯綜していた雲や空の景観が、今は澄みわたって、「巨大な過去」のような・奥行きの深い悠遠な空間に変る──ということだと思います☆

錯綜していた景観が一気に晴れ渡って、透明な世界が現出します。

☆(注) 発行後、《菊池本》に作者が加えた修正を見ると、このスケッチの最初に1行補って:「感官の遥かな果[はて]を/風が偏倚して過ぎたあとでは」となっているように、この風景の変化は、作者の感じた《心象》風景の変化でもあります。

. 春と修羅・初版本

08五日の月はさらに小さく副生し
09意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
10月の尖端をかすめて過ぎれば
11そのまん中の厚いところは黒いのです
12(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
13きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ斷雲と

「五日の月はさらに小さく副生し」:月が小さな暈を作って、大小二重に重なっているように見えるのを、‘六日の月の中に五日の月がある'と言っているのだ、という解釈があります。そうかもしれません。

「蛋白彩の雲」は、「蛋白石」(オパール)の色彩を指します。というのは、16行目で「硅酸の雲」と言い換えているからです。

蛋白石(オパール)の化学組成は SiO2・nH2O で、10%以下の水分を含む含水珪酸です。無色透明なものから、半透明、乳白色、褐色、黄色、緑色、青色と、さまざまな色のものがあり、色の縞が見えるものや、見る角度によっていろいろに変色するものもあります:画像ファイル:蛋白石

宮沢賢治の童話『貝の火』の宝珠は、オパールがモデルだと言われています。

したがって、この飛んで行く・ちぎれ雲は、虹のような色彩が次々に変化してゆく綺麗な雲で、13行目では、「きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ斷雲」と言っています。
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