ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.85


この問題は、すでに「青森挽歌」の検討の中で触れましたが(7.1.15〜7.1.16)、

草稿の「青森挽歌 三」で「右側の中ごろの席」にいる乗客は、《初版本》「青森挽歌」に出ていた「ドイツの尋常一年生」の原型だと思うのです。





. 春と修羅・初版本

46 (おヽおまへ せわしいみちづれよ
47  どうかここから急いで去らないでくれ
48 《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》
49  いきなりそんな惡い叫びを
50  投げつけるのはいつたいたれだ
51  けれども尋常一年生だ
52  夜中を過ぎたいまごろに
53  こんなにぱつちり眼をあくのは
54  ドイツの尋常一年生だ)

. 青森挽歌 三

「その右側の中ごろの席
 青ざめたあけ方の孔雀のはね
 やはらかな草いろの夢をくわらすのは
 とし子、おまへのやうに見える。」

この乗客は、女性なのでしょうか?

ギトンは、女性ではなく少年だったのではないかと思うのです。

というのは、@まず、《初版本》のほうで「けれども尋常一年生だ」と呼ばれているのは、やはり子供だと思うのです。Aトシの写真を見ると、お茶目で可愛いひとのようです(宮澤トシ)。男の子と見間違えられてもおかしくないように思います。Bさらに傍証になるのは、「青森挽歌 三」の・上記に続くパッセージで、父・政次郎氏も、通りがかりの子供(少年か少女かは分かりません)を、トシと見間違えているのです:

. 青森挽歌 三

「『まるっきり肖たものもあるもんだ、
 法隆寺の停車場で
 すれちがふ汽車の中に
 まるっきり同じわらすさ。』
 父がいつかの朝さう云ってゐた。」

想像になりますが、賢治は、夜中に通路を移動した時に、この子供の乗客を見たのだと思います。大人の乗客はみな眠ってしまっているのに、この子供だけが、「ぱつちり眼をあ」いていて、やはり寝ないで出歩いている賢治と、目が合ったのではないでしょうか?

あるいは逆に、子供のほうが歩いていて、座席の賢治と目が合ったことも考えられ、その場合には、「どうかここから急いで去らないでくれ」(47行目)の説明が容易になります。‘尋常一年生’が、「去らないでくれ」と言うような目で賢治を見送っていることになるからです。

しかし、53行目の「こんなにぱつちり眼をあく」は、座席にいる子供でなければ不自然ですから、やはり、子供が座席にいたと考えるべきでしょう。
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