ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.81


ともかく、こうして作者が、夜明けとともに明るい方向へ思索を向けようとしていると、またもや、邪魔をする声(幻聴?)が響いてきます:

. 春と修羅・初版本

223 《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》
224だまつてゐろ
225おれのいもうとの死顔が
226まつ青だらうが黒からうが
227きさまにどう斯う云はれるか

「あの顔色」は、トシの死亡直後の“死に顔”です。

前にも触れましたが、仏教では、死亡時の顔色、表情、匂いなどによって、《転生先》を判断できるという考え方があるようです☆。これは、「臨終正念」というそうです:

☆(注) 「又経に此説あるじや。臨死の人。面上に五色の風あり。若(もし)地獄に入者は黒色。若(もし)畜生に生ずる者は青色。若(もし)餓鬼に生ずる者は黄色。〔…〕若(もし)側に侍て。死者の相を看るに。〔…〕大抵は。善相なる者は善処に生じ。悪相あらはるゝ者は悪趣に入ると云ことじや。」(『十善法語』巻第十一「不邪見戒之中」12〜13頁、国会図書館所蔵本)

「妹が
〔「無声慟哭」で──ギトン注〕『(おら、おかないふうしてらべ)』と母に問いかけたのは、自分の姿が『おかないふう』なのではないかということを、臨終正念の問題から考えているからで、〔…〕餓鬼界や地獄界など下方世界への転生を懸念してのことと解釈した方が詩の流れに沿う。」
(鈴木健司,op.cit.,pp.176-177)

. 春と修羅・初版本

228あいつはどこへ堕ちやうと
229もう無上道に屬してゐる
230力にみちてそこを進むものは
231どの空間にでも勇んでとひこんで行くのだ
232ぢきもう東の鋼もひかる





↑この「もう無上道に屬してゐる」は、“天に往生した”という意味ではありません。(なお、「もう」とは、死の直後ではなく、1923年8月の時点では、という意味です。)

鈴木氏によれば、むしろ逆なのです:

「『法華験記』や「日蓮伝説」に記されるように、古来、法華経を誦する功徳には絶大なものがあると考えられてきた。たちどころに病は治癒し、死者は蘇り、地獄界や餓鬼界ですら法華経の効能はそこを浄土と化すのである。」

しかし
「賢治は、法華経の受持という功徳により天界に往生する自己を想像し得なかった。」晩年の詩断片〔あかるいひるま〕(『口語詩稿』収録)でも、「たうたうおれも死ぬのかな/いま死ねば/いやしい鬼にうまれるだけだ」と書いています。《餓鬼》か《阿修羅》に転生するほかないと言うのです…あれほどの“功徳”を積みながら‥。「法華経を免罪符として都合よく用いることのできぬ倫理的高みに賢治はいたからである。」

「したがって、このような賢治の倫理は、妹とし子の転生に関しても、『あいつはどこへ堕ちやうと』というように、悪所(地獄界や餓鬼界)の想定を導かざるを得ないことになる。その上で賢治は、『もう無上道に属してゐる』と妹とし子の成仏を自分にいい聞かせるのである。」
(op.cit.,pp.189-190)
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