ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.6


「樺太鉄道」の作品日付は、8月4日で、時間帯は夕方から日没時。栄浜16時35分発の列車で《豊原》(とよはら; 現・ユジノサハリンスク)へ向かう車中からの風景です。

「鈴谷平原」の場所は、豊原近郊、鈴谷岳の山麓で、8月7日付、時間帯は昼間です。この詩のおしまいのほうで、

「こんやはもう〔…〕わたくしは宗谷海峡をわたる」

と書いています。したがって、豊原16:25発の列車で大泊へ向かい、その夜の連絡船で稚内へ。

稚内港に着くのは、8月8日朝です。「宗谷(二)」は、連絡船の上から眺めた日の出のようす。「宗谷(一)」は、宗谷岬付近の丘陵地です。連絡線に接続するのは、(a)稚内午前7時25分発の函館桟橋行きですが(滝川から急行列車)、(b)午前11時40分発の名寄行き普通列車に乗れば、名寄で網走から来る列車に接続し、この列車は、札幌まで普通列車のまま行きます(札幌から急行)。
(b)11時40分発に乗ったとすれば、稚内で6時間あまりありますから、宗谷丘陵・宗谷岬方面へ行って「宗谷(一)」のけしきを見て来る余裕があるでしょう。

(a)7時25分発に乗っても、急行料金を節約しようとしたら、けっきょく、旭川か滝川で夜の時間を潰して(b)に乗り換えなければなりませんから、賢治は、最初から、朝の宗谷の景色を見る(b)のほうを選んだと思います。

こうして、札幌到着は、翌9日早朝です。

次に日付が判るのは、「噴火湾(ノクターン)」で、8月11日、場所は、噴火湾(内浦湾)沿岸の森駅手前。黎明ですが、詠み込まれている室蘭連絡航路船の時刻(午前4時森港発)や、日の出時刻(4:38)から考えると、函館桟橋午前6時27分着の急行列車(森4:44着)に乗っていると考えなければなりません。1時間ほど前に普通列車はあるのですが(森駅3:38着3:45発)、これでは連絡船出航前に通過してしまいます。

ここで急行列車に乗ってしまうのは、これまでずっと急行料金を節約してきた努力に反するのですが、「噴火湾(ノクターン)」には、三等車でなく二等車に乗車しているとも書いてあります。作品に描かれた状況を“スケッチ”と信じるかぎり、この区間は、急行列車の二等だったと考えざるを得ないのです。

ところで、このように押さえて行くと、9日の昼間と10日があくことになりますが、この間、どこで何をしていたのでしょうか?

旭川で降りて、往路で行きそこなった農事試験場を訪ねたと推定する人もいますが、到着は16時51分ですから、それから上川支場を訪ねるのは無理です。試験場を訪ねるには、旭川に泊まらなければなりません。

往路には7時間の待ち合わせ時間がありましたから、行ったにしろ行かないにしろ、すでに用事は済んでいると思います。帰路は旭川で降りないで、札幌へ向かっていると思うのです。

作品「札幌市」は、駅の近くにある《開拓記念碑》の公園ですから、札幌で下車したのは間違えないでしょう。

そのあとは、ほとんど資料のない憶測になりますが、賢治は小樽にも寄っていると思います。
小樽で《手宮洞窟》を訪れ、当時“謎の手宮文字”として有名になった先史壁画を見ていたと思うのです☆

☆(注) 秋枝美保氏も《手宮洞窟》訪問の推定を述べておられますが、氏は、奇妙なことに、往路に函館⇔小樽を往復した可能性を考えています。秋枝美保『宮沢賢治 北方への志向』,pp.176-182,325-326. しかし、ギトンは、藤原氏の推定にしたがって、稚内まで普通列車を乗り継いだと考えますから、往路は、旭川の“試験場行き”を前提するかぎり、小樽で時間を潰す余裕はないことになります。小樽を訪問したとすれば帰路でしょう。
なお、賢治は、旅行のお土産にマリモを持ち帰ってきたという回想談もあります。札幌でも買えたと思いますが、帰路の途中釧路方面に往復してくることも、日程上可能ではあります。

さて、「噴火湾(ノクターン)」のあと、函館から、そのまま列車を乗り継いで行けば、11日夜には、盛岡、花巻に着くはずです。ただ、賢治は、帰った後で、「帰りは所持金を使い果たしたので、盛岡から歩き、花巻には翌朝着いた。」と話しているようなのです。この話を信用すれば、花巻到着は12日になります。

. 春と修羅・初版本

01こんなやみよののはらのなかをゆくときは
02客車のまどはみんな水族舘の窓になる
03(乾いたでんしんばしらの列が
04 せはしく遷つてゐるらしい
05 きしやは銀河系の玲瓏レンズ
06 巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
07りんごのなかをはしつてゐる
08けれどもここはいつたいどこの停車塲(ば)[だ]
09枕木を燒いてこさえた柵が立ち

↑ようやく、「青森挽歌」本文の検討に入ります。花巻21時59分発・下り普通列車の車内、おそらく三等車でしょう。「やみよののはら」と言っていますが、あとのほうでは、「ぢきもう東の鋼もひかる」(232行目)、「もうぢきよるはあけるのに」(240行目)と言っています。そこで、列車ダイヤとの関係から、この「のはら」は、八戸〜乙供駅間の“三本木原”と思われます★

★(注) 漫画家ますむらひろし氏の推定。研究者によっても支持されています:鈴木健司『宮沢賢治という現象』,2002,蒼丘書林,p.137.

車内から外を見た光景を書いています。水族館のガラス越しに水槽の中を見ているように感じます。

線路に沿って並んでいる電信柱が過ぎて行きますが、外が暗いのでよく見えません。水底のような夜の原野で、電信柱の残影だけが、せわしなく通過し、乾燥した感覚を与えます。

5-6行目は、逆に、遠くから、走ってゆく列車を眺めた《心象》です。
汽車は、「銀河系の玲瓏レンズ」の中を走っています。あるいは、「巨きな水素のりんご」の中を駆けています。

「銀河系の玲瓏レンズ」:私たちの銀河系(天の川)を、宇宙の彼方から見ると、凸レンズを横から眺めたように見えます:画像ファイル:銀河系モデル あるいは、地球上から見える天の川も、地平線の下にある部分もふくめて全体を見渡せれば、銀河系を横から見た像に近いのです。

「玲瓏」は、@金属や宝玉が触れ合う リン ロン という冴えた音、A玉のように透きとおって輝くさま。

銀河系の星間物質の約70%(質量比)は水素なので、銀河は、“水素でできたレンズ”とも言えるそうです。

05-06行で、視点が移って、外から眺める視点に立つと、「闇夜の野原」は、一転してまばゆく輝く「玲瓏」空間になります。

「水素」は無色透明で軽い気体。
「りんご」も、白くさわやかな果肉のイメージでしょう。水素でできた巨大な林檎の果実の中を、いまこの汽車が走っているのです◇

◇(注) これに対して、場所が青森県であることを根拠に、「りんごのなかをはしつてゐる」とは、リンゴ林の中を走っている意に解する人もいます(渡辺芳紀氏ほか)。しかし、鈴木健司氏が指摘されるように、この時賢治の乗った汽車が通過していた“三本木原”、八戸〜野辺地間は、気候の関係で林檎栽培は行われておらず、‘リンゴ林’は車窓に存在しないのです。鈴木健司:op.cit.,p.148,注(3). カッコ書きの「銀河系の玲瓏レンズ/巨きな水素のりんごのなか」と同じく、字下げ無しに戻った7行目も、巨大な果実の中と解すべきです。

しかし、「水族館の窓」という語句の影響は、なおあって、やはり、完全にキラキラではなく、どこか濃度のあるウェットな感じがします。
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