ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.11.9
賢治は、碑文の経緯についても、雑誌『白樺』などを読むか、農政・農学関係の友人らに話を聞くかして、知っていた可能性はあると思います。
1924年6月の有島の自殺も、真意はともかく、農場解放に関心を持った者の目から見れば、“当局に禁止された碑文を、有島自ら刻み付ける行為”のように見えたかもしれません。
「六月に‥刻んだ‥劃」とは、有島武郎が、自らの身をもって刻み付けた幻の《農場解放碑》ではないでしょうか?
「ひのきのひらめく六月」の「ひのき」が閃いたのも、有島の死を悼んで‥‥と読むことが可能です。
有島農場は、《手宮洞窟》のある小樽にも程近いのです。
幻の《農場解放碑》は、《手宮洞窟》に刻まれた‘北方民族’の‥、あるいは《異界》の生き物の姿と重なって見えたかもしれません‥
「農場解放記念碑」 「狩太共生農園入口」
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