ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.11.5


これらの壁画を描いたのは、“続縄文文化人”、つまり、縄文人の子孫、アイヌの祖先に当たる人々と見られています。洞窟から、続縄文文化の土器片が出土しているからです。

そればかりか、最近では、よく似た洞窟壁画が、日本海を囲む沿海州、朝鮮半島など各地にあることが分かってきました。つまり、特定の民族が使った文字ではありえないわけですw
これらの壁画に描かれた“角をもつ人”は、シャーマンを描いたものではないかと言われています:小樽市・手宮洞窟保存館 子どものための小樽の歴史

ところで、↑上の画像ファイルで《手宮洞窟》の線刻を見て、これが文字に見えるでしょうか?!‥ふつうは見えないんじゃないか(笑)、文字よりは絵に見えると思います。

じつは、宮沢賢治も、もし実際に《手宮洞窟》を見に行ったとしたら、やはり、「これは絵だ!」と思ったにちがいないという気がするのです。なぜなら、賢治は、権威よりも自分の眼と感覚を信じる人でしたから。

そして、「雲とはんのき」の「おまへが刻んだその線」という言い方も、文字や文章を指す言い方ではなく、図や絵を指す言い方だと思うのです:

. 春と修羅・「雲とはんのき」

24 (ひのきのひらめく六月に
25  おまへが刻んだその線は
26  やがてどんな重荷になつて
27  おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
28手宮文字です 手宮文字です




ちなみに、《初版本》発行後の賢治の推敲が記入されている《宮澤家本》では、この部分は:

「おまへが刻んだその劃は」

となっています。「劃(かく)」とは、漢字を構成している線のことで、例えば[下]という字は[一][h][丶]という3つの劃でできています。漢和辞典で“「下」は3画”というときの「画」は、「劃」の代字です。

したがって、《宮澤家本》では文字に近い表現に直しているのですが、‥もとの【印刷用原稿】でも《初版本》でも「線」だったのですから、やはり、基本的には絵として見ていたと思うのです。

後日に「劃」に直したのは、短い線刻の集合からできているこの壁画の感じを表すためだと思います。

そうすると……ここからは見解が別れるかもしれませんが……、この《手宮洞窟》の“角をもつ人”の線刻は、‥ちょっと怖いですね‥‥あの『サガレンと八月』の「犬神」のような化け物の感じがします。

賢治は、この壁画に、《異界》の化け物、あるいは神的存在を感じたのではないか?‥

「おまへに男らしい償ひを強ひる」とは、そうした《異界》からのリアクションを恐れる表現ではないかと思うのです。
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