ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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宗谷丘陵と宗谷海峡の海
【72】 宗谷(一)
7.10.1
最初に取り上げる「宗谷(一)」は、「宗谷(二)」と同様に、1931年頃以後の作成と思われます☆。赤インクの(了)字★が記され、『文語詩未定稿』綴所収。
☆(注) 黄罫詩稿用紙(22,0)に書き下ろされており、もとになる口語詩やメモは発見されていません。この用紙の使用時期、および文語詩稿全体の作成のピークは、1931年以降と推定されます:杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,1993,蒼丘書林,pp.235,241.
★(注) ○の中に「了」。1932年ころに、文語詩稿の一部について、いったん推敲完了を認めて記したと思われる印。
【下書稿(一)】【下書稿(二)】と、それぞれの各手入れ形があります。
まず、【下書稿(二)手入れ@】を見たいと思います:
. 宗谷(一)
「 北 見
丘丘は幾重つらなり
こゝにして山きはまれば
見はるかす大野のかなた
海ぞともはてししらなく
ましろなるそらのましたに
水いろの亜麻刈るなべに
立ち枯れのいたやの根もと
ほろ蚊帳にあかごはねむる
丘の上のスリッパ小屋に
媼ゐてむすめらに云ふ
恋はみなはじめくるしく
やがてしも苦きものぞと
にれくらき谷をいでこし
まくろなる流れの岸に
こらつどひかたみに舞ひて
たんぽゝの白き毛をふく」
題名の「北見」は、1869年(明治2年)制定の北海道北見国を指していると思われます。
北見国は、稚内・利尻島・礼文島から知床半島北海岸までのオホーツク海沿岸部を占めていました。
描かれている地形からみると、稚内・宗谷岬付近の丘陵地と思われます。
宗谷岬の南には標高100-200mのゆるやかな丘陵地が広がっていて、その間を天塩川がゆったりと流れています。《周氷河地形》というそうで、たしかに氷河によって山が削り取られてできたような・うねった台地が続いています。
ただ、賢治がサハリン旅行の帰路に、じっさいに宗谷岬や宗谷丘陵を訪ねたかどうかは不明です。日程と列車ダイヤから言えば、訪れたと推定したいところなのですが‥:⇒7.1.6 旅程の推定
賢治が、急行列車を避けて料金を節約したとすれば、稚内港到着の午前5時から、普通列車の発車する午前11:40まで、6時間あまりの空き時間があります。
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