ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.9.7
この詩の題材メモと思われる↓次の記載が、『歌稿B』の余白に記されています:
「岩手山麓の谷の炭焼小屋、
その老人、カラフトの話、夜、灌木の白き花
羊歯 鳥の声
石のくづれ落つる音
いたゞきの風」
このメモを頼りに、文語詩「谷」の意味を考えてみますと:
外地で“一旗上げよう”とサハリンに渡り、失敗して妻子とバラバラになり、ひとり岩手県に戻って来て、岩手山麓の谷でほそぼそと炭を焼いている老人の姿。「おれはもう、この谷で、病気になって死ぬのを待つばかりだ。」
メモが書かれている『歌稿B』の頁には、
#34 藪すべてたそがるゝころやうやくに
. み山の谷にたどり入りぬる。
という短歌(中学生時代のもの)がマークされています。
賢治が、この老人に遇ったのは、中学生時代のことか、サハリン旅行の後のことか、分かりませんが、いずれにせよ、日本全体としては、外地開拓熱が大いに盛んになって、次々に移民が送り出されていた時期なのです。宮澤賢治の没した1930年代まで、そのような傾向には、ますます拍車がかかって行くばかりで、少しも後退する兆しはありませんでした。
おそらく、植民者全体としては、成功譚のみがもてはやされていた時期でしょう。
にもかかわらず、宮沢賢治は、失敗して帰ってきた──そして、もはや朽ちるばかりとなった老人を、あえて取り上げて、その悲哀を淡々と描くのです。
それは、“静かな植民地批判”ではなかったでしょうか?
「宗谷(二)」に登場する紳士と、この老人との関係は分かりません。おそらく、まったく別の人物でしょう。
しかし、植民地サハリン★に向ける賢治の批判的視線、そして植民者たちに向ける哀惜の視線には、同様のものがあると言ってよいのです。
★(注) 日本領南樺太は、国の機構としては、朝鮮や青島のような植民地ではなく、北海道と同様の“日本領土”でした。しかし、ここで“植民地サハリン”と呼ぶのは、社会経済的意味においてです。そもそも、宮澤賢治は、北海道さえ「植民地」と呼んでいましたから(作品「旭川」参照)、賢治批評の中で、樺太を植民地と呼ぶのは、不当なことではありません。
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