ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.8.7


『サガレンと八月』には、つぎのような一節があります:⇒『サガレンと八月』

「そしたら俄かに波の音が強くなってそれは斯う云ったやうに聞こえました。『貝殻なんぞ何にするんだ。そんな小さな貝殻なんど何にするんだ、何にするんだ。』
    〔…〕
 『あんまり訳がわからないな、ものと云ふものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁいけないもんぢゃないんだよ。そんなことおれよりおまえたちがもっとよくわかってさうなもんぢゃないか。』

 すると波はすこしたぢろいだやうにからっぽな音をたててからぶつぶつ呟くやうに答へました。『おれはまた、おまえたちならきっと何かにしなけぁ済まないものと思ってたんだ。』

 私はどきっとして顔を赤くしてあたりを見まはしました。

 ほんたうにその返事は謙遜な申し訳のやうな調子でしたけれども私はまるで立っても居てもゐられないやうに思ひました。

 そしてそれっきり浪はもう別のことばで何べんも巻いて来ては砂をたててさびしく濁り、砂を滑らかな鏡のやうにして引いて行っては一きれの海藻をただよはせたのです。

 そして、ほんたうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いてゐるとほんたうに不思議な気持がするのでした。〔…〕」

「どきっとして顔を赤くしてあたりを見まはしました。」「私はまるで立っても居てもゐられないやうに思ひました。」という作者の驚愕──それは、理由さえ説明できない驚愕に、とつぜん打たれたとしか言いようのない・不思議な体験だったのだと思います。作者が:

「風のきれぎれのものがたりを聴いてゐるとほんたうに不思議な気持がするのでした。」

と書いているのは、物語を面白くしようとする意図でもなければ、修辞でもなく、ただただ↑そうとしか言いようのない・作者の掛け値無しの物言いなのだと思います。

ここの:

. 春と修羅・初版本

09荘厳ミサや雲環とおなじやうに
10うれひや悲しみに対立するものではない

というのも、
単に、旅愁を誘う、さびしさがこみ上げる、といった意味にだけとったのでは(もちろん、それも間違えではないのですが)片手落ちかもしれません:
.
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