ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.7.10


作者が、具体的に誰彼を指して言っているのだとしたら、宮澤賢治の周りの人々の中で、候補となるグループは2通りあるかと思います。

@ 父・宮澤政次郎氏はじめ、花巻・宮澤家の若手グループ。彼らは、農村の古い地主的体質に飽き足らず、近代的な企業経営や資産投資によって致富に努めていましたが、そうした日常によって生じる“心の空隙”を埋めるよすがを、仏教信仰に求めていました。彼らは、宗派にこだわらず高僧や仏教学者を招いて講習会を行ないましたが、とくに親交が厚かったのは、浄土真宗・改革派の清沢満之、暁烏敏らでした☆

☆(注) 栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,1992,新宿書房,pp.8-51.

A 宮澤賢治が加入した『国柱会』は、日蓮宗の宗教団体ですが、主宰者の田中智学は、“在家仏教”を唱え、僧侶、寺院、‥といったものの存在を否定しました。つまり、宗教に専門家は必要ない、というわけです。したがって、『国柱会』に僧侶はいないわけで、全員が「居士」の宗派なのです。また、『国柱会』の経済的基盤は、都市の中産商工業者でして、寄付を惜しまない中小資産家の会員を支えにしていました★。その意味でも、「居士仏教」と言えます。

★(注) 菅谷規矩雄『宮沢賢治序説』,1980,大和書房,pp.126-128.

賢治が、これだけの“憤り”を、どちらのグループに対して抱いていたのかは、分かりません。
しかし、「青森挽歌」に出ていた:

. 春と修羅・初版本

223   《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》
224だまつてゐろ
225おれのいもうとの死顔が
226まつ青だらうが黒からうが
227きさまにどう斯う云はれるか

235   《もひとつきかせてあげやう
236    ね じつさいね
237    あのときの眼は白かつたよ
238    すぐ瞑りかねてゐたよ》

など、トシの“地獄落ち”を示唆する“魔のささやき”が、臨終に集まった親戚の人々の陰口だったとすれば、「にせものの大乗居士ども」は@です。↑おまえらが業火に焼かれてしまえ!というわけですw

しかし、より広く考えた場合には、
『国柱会』は、日蓮宗団体として、国策の対外進出にもたいへん熱心だったようです。あの“満州国”建国の立役者・石原莞爾も、熱心な信者で、田中智学と浅からぬ親交がありました。サハリンにも及んで来ている植民地化、植民地開拓の波にも、『国柱会』は、繋がっていたと言えます。

また、作品には全く書かれていませんが、賢治は、トシ臨終の真最中に、『国柱会』の要人お出迎えのために呼び出され、死去直前の時間に不在だったことが、『国柱会』の機関紙記事の発掘によって明らかにされています:

「なお、この日
〔1922年11月27日──ギトン注〕の夕方、青森・北海道方面へ巡教にむかう国柱会教職長滝智大の花巻通過に際して、賢治は関徳弥とともに花巻駅頭へ出て、出迎え、面会する。

 『妙高旅信』(『天業民報』大正一一年一二月五日、六日各三面)による。なお、関は長滝に同道して『午後七時』盛岡の村井弥八方へ至り『三人法談する』。」


◇(注) 『新校本全集』第16巻(下)年譜篇,pp.244,247.

列車ダイヤから、長滝の乗った列車は、午後5時13分花巻発→6時24分盛岡着の普通列車と思われます(『公認汽車汽船旅行案内』346号[1923.6.15.現在])。

したがって、賢治が自宅に戻れたのは、午後5時半〜6時頃でしょう。「年譜」によると、トシ死去は午後8時30分です。

このことについて、賢治が、どんな気持ちを持ったのかは、何も書き残していないので分からないのですが‥

そういうわけで、賢治がAに対して、“いまさら振り上げようのない拳”を固めていたことは、ありうるのです。
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