ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.7.9


. 春と修羅・初版本

23黒い木柵も設けられて
24やなぎらんの光の点綴
25 (こゝいらの樺の木は
26  焼けた野原から生えたので
27  みんな大乘風の考をもつてゐる)
28にせものの大乘居士どもをみんな灼け

カッコ書き・2字下げの「(こゝいらの樺の木は/‥」は、これまでのカッコ書きより頭が高く、遠景を叙述する字下げなしの行に近い高さです。これは、風景の印象から受けた感動を直接ぶつけている他のカッコ書きとは異なって、いくぶんか作者の理性的な反省を経た思索なのだと思います。

この思索が、無意識の底から引き寄せたように、28行目の激しい怒りの突出を導いているのです。

最初のほうで、焼かれたトナカイの「ごく敬虔」な頭蓋骨が言及されていましたが、その光景に寄せる作者の気持ちを直接表明することは、避けられていました。そして、樺太の自然の“崇高さ”に対する畏敬の気持ちだけが、ずっと表明されてきたのです。

しかし、25-28行目に至って、作者の“憤り”は、堰を切ったように溢れたのだと思います。

しかし、それは、直接に、自然を破壊するものに対する憤激としては示されませんでした。というのは、自然の風景を眺めての“畏敬”も、賢治の場合には、多分に宗教的な方向を持っていたからです。そのため、“憤り”の対象も、宗教的な関係性に向かってしまうのだと思います。





「にせものの大乘居士ども」とは、どんな人たちなのでしょうか?

「大乘風の考」からの意味のつながりを考えると、「にせもの」とは、宗教の表面的な権威を体現する偽善的な人々のように思われます。キリスト教で言えば“パリサイびと”のような、厳格な教義や戒律だけを墨守し、信仰の“中身”を欠いた人々です。

「居士」を辞書で引いてみると:

「在家の男子であって、仏教に帰依した者」

「出家せず、家にあって修行を重ねる仏教者」

などとあります。
つまり、僧侶ではない仏教徒。しかし、単なる信者ではなくて、坊さん並みに修行した人、ということのようです。

しかし、「居士仏教」で引いてみますと:

「インド仏教における“居士”の原語はグリハパティ(grhapati)で,その原意は富裕な資産家を意味する。

 初期仏教の時代,マガダ国を中心に鉄の使用が盛んになり農耕器具の発達により豊かな農産物が各地へ売買されるにいたり,富裕な商工業者の資産家が出現した。彼らは四姓(カースト)の中ではバイシャ(庶民階級)に属し,初期仏教は主として彼らの精神的支柱として熱心に信仰されるにいたった。

 つまり初期仏教では“居士”とは,熱心に信仰し修行する在家の富裕な資産家を意味した。」

(世界大百科事典)

仏教を「熱心に信仰し修行する在家の富裕な資産家」──ということになります。

しかし、「居士ども」と、複数になっていることにも注意したいと思います。
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