ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
181ページ/250ページ


7.6.39


というのは、日本領時代の人口統計によると、日本領南樺太にいた先住民は、樺太アイヌが圧倒的に多かったのです。統計された人口で言うと、ニヴフやウルチャの約10倍です。日本人の半分ほどの人口がいました。日本人は、大泊や豊原などの都市に集中していたでしょうから、栄浜付近では、住民の多数は樺太アイヌだったのではないかと思われるのです。──「オホーツク挽歌」に出てくる荷馬車の「若者」も、アイヌかもしれません☆

☆(注) 樺太アイヌは、日本領時代になってから、牛や馬の飼育を、盛んにするようになりました。たとえば、樺太アイヌがピウスツキに宛てたアイヌ語書簡には、そのことが詳しく触れられています:千徳太郎治のピウスツキ宛書簡(PDF)

しかも、ニヴフ、ウルチャの居住地は、ロシアとの国境に近い敷香(シッカ; ポロナイスク)でして、栄浜付近やそれ以南には、居ないのです:サハリン全図

宮沢賢治が、犬を他界との往来者とするニヴフなどのシャマニズムや民話に関心を持ったのは事実としても、賢治にそれを伝えたのは、ニヴフでもウィルタでもなく、樺太アイヌだったのではないか?‥

樺太アイヌの信仰は、北海道アイヌと同様に、“熊祭り”(イヨマンテ)を中心とするものです。彼らにとって、他界との往来者は、犬ではなく熊です。
しかし、樺太アイヌの人々ならば、ニヴフの信仰についても、よく知っていて、賢治に伝えることができたでしょう。

『サガレンと八月』には、犬は、神聖な神の使いではなく、「犬神」という恐ろしい化け物の姿で現れます。これは、犬を信仰している当の民族から教えられたのではなく、(それをよく思ってはいない)他の民族から伝え聞いた状況を推測させます。

樺太犬の飼育は、樺太アイヌのもとでも盛んでした。たとえば、白瀬中尉の南極探検には、2人の樺太アイヌが、同族住民から集めた26頭の樺太犬を連れて参加しています。

さらに‥、宮澤賢治と樺太アイヌを繋ぐ“ミッシング・リング”は、もうひとつあります。言語学者の金田一京助です。

金田一京助は、北海道アイヌの叙事詩ユーカラの研究で有名ですが、金田一のアイヌ語研究は、樺太アイヌ語から開始されたのです:1907年東京帝国大学在学中に、日本領南樺太へ渡って、樺太アイヌ語を調査し、「樺太アイヌの音韻組織」という論文を書いています。つまり、金田一は、現地の樺太アイヌと知己があったと思われます。

その金田一は、盛岡の出身で、石川啄木との交友は有名ですが、宮澤賢治とも顔見知りでした。1921年、賢治が東京に寓居して国柱会の活動をしていた時、金田一は、上野公園でビラ配りをしている賢治に出くわして立ち話をしたことが、金田一の回想記にあります。

このように、まだまだ未調査ですが、宮沢賢治と樺太アイヌ、またニヴフなど北方先住民との関係については、これから新しい資料が発掘されてくる期待があるのです。。

ともかく、現在の時点においては‥、賢治は、栄浜から、ナイプチのアイヌ集落と白鳥湖のある西海岸へ向かった──という推定までは、とりあえずしておいてよいと思います。


【69】樺太鉄道 ヘ
第7章の目次へ戻る




.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ