ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.1.17


賢治は列車に乗っていて、相手も車内にいるのなら、去ってゆくことを心配する必要はありません。だとすると‥“わたくしを呼んでいる声”は、列車の外から聞こえるのか?

さて、ここで少し前を思い出したいのですが、作者は、下り夜行列車で北へ向かっているつもりなのに、列車は逆に南へ駆けているような気がする☆──と言っていました:

☆(注) ギトンの読み方がふつうだと思います。つまり、「みなみへかけている」(22行目)を、汽車がバックしていると読むわけです。しかし、違う読み方を提唱される方もいます。鈴木健司氏は、(いわば)汽車が180°曲がって逆向きに走る、と読むのです。これは、乙供駅の先で、東北本線が90°折れて進む区間があるからです。もともと北北西に進んでいましたから、90°折れれば西南西に向かうことになります。賢治は、ここを通過する時に“Uターンして逆向きに走る”感じがして興味をそそられたので、詩のモチーフとして取り入れたのだと思います。鈴木氏の詳細な調査には頭が下がります。ただ、読み方としては、バックでもUターンでも差し支えないと思います。なお、鈴木氏は、「青森挽歌」全体が、乙供駅通過前後の短い時間に、250行を超える思索を圧縮して盛り込んだもの、と理解しておられます。これも、時間経過の圧縮という点はともかく、乙供駅に注目されたのは卓見だとギトンも思います。というのは、ギトンの考えでは、まさにこの乙供=乙女・子供駅で、トシの霊に引き止められたと、賢治は思ったからです。鈴木健司,op.cit.,pp.144-145.

. 春と修羅・初版本

21わたくしの汽車は北へ走つてゐるはづなのに
22ここではみなみへかけてゐる
    〔…〕
30汽車の逆行は希求の同時な相反性
31こんなさびしい幻想から
32わたくしははやく浮びあがらなければならない

さきほど読んだ時には、なにものかが列車を後ろに引き戻そうとしているように「わたくし」は感じた、と書きました。

ところで、その間に、例の停車場が3回現れています。

もちろん、列車が走って行って、順々に3つの駅を通過した(あるいは停車した)と思ってもよいのですが、“列車の逆行”との関連で、3つは、じつは同じ駅だと考えてみることもできるのではないでしょうか?

いま、“列車の逆行”と、停車場の通過が、どのように交代しているかを確認してみますと:

. 春と修羅・初版本

8けれどもここはいつたいどこの停車塲だ
    〔…〕
21わたくしの汽車は北へ走つてゐるはづなのに
22ここではみなみへかけてゐる
    〔…〕
28水いろ川の水いろ驛
29(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)
30汽車の逆行は希求の同時な相反性
31こんなさびしい幻想から
32わたくしははやく浮びあがらなければならない
    〔…〕
51 けれども尋常一年生だ
52 夜中を過ぎたいまごろに
53 こんなにぱつちり眼をあくのは
54 ドイツの尋常一年生だ)
55あいつはこんなさびしい停車塲を
56たつたひとりで通つていつたらうか

このように、

 停車場 → 列車の逆行 → 停車場 → 列車の逆行 → 停車場

という順になっています。そして、3回目に停車場が現れた時に、「どうかここから急いで去らないでくれ」という「ドイツの尋常一年生」のつぶやきが聞こえてくるのです。。。
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