ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.6.3


. 春と修羅・初版本

001海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
002緑青(ろくせう)のとこもあれば藍銅鉱(アズライト)のとこもある
003むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液(るりえき)だ

「オホーツク挽歌」の冒頭は、「炭酸」「緑青」などの化学用語・鉱物学用語を駆使して、海岸に打ち寄せるオホーツク海の深い色彩を描写しています。

作者が前提している‘擬似化学知識’としては、夜間は植物が光合成を休むので、朝の空気は二酸化炭素(炭酸ガス)が多い→海面に二酸化炭素が溶け込むので、炭酸銅が生成して☆、海は「緑青」や「藍銅鉱」の色になる‥‥もちろん、これは作者が海の色(→銅イオンの色)から連想した疑似化学で‥じっさいにこのような化学反応が起きているわけではありません。

☆(注) 緑青は、銅の青緑色の錆で、主成分は塩基性炭酸銅(Cu2(CO3)(OH)2)。藍銅鉱(アズライト)は藍色の鉱物(宝石)で、やはり塩基性炭酸銅(Cu3(CO3)2(OH)2)ですが、塩基性の程度に違いがあります。

緑青の塩基性炭酸銅が、鉱物として産出したものが孔雀石ですが、孔雀石と藍銅鉱は、いっしょに(たとえば縞状になって)産出することが多いのです:画像ファイル・藍銅鉱
その点からも、これは、青緑から藍青色に移ってゆく海面の濃淡の描写として、すぐれていると思います。

「朝の炭酸」も、なんとなく朝の爽やかさを表現しています。

「瑠璃(るり)」は、ラピスラズリの和名★。ラピスラズリは、深青色〜藍色の宝石です。

★(注) 「ラピス・ラズリ(lapis lazuli)」は、ラテン語で“紺碧色の石”の意。「瑠璃」は、パーリー語の "velurya"(=サンスクリット語"vaidurya")を、漢文に音訳したもので、これらは、ラピスラズリ、サファイア、猫目石などの宝石を表します。

ラピスラズリは、方ソーダ石グループに属する複数の鉱物の固溶体で、主成分の青金石は:Na8-10Al6Si6O24S2。アルミニウム、硫黄などを含む珪酸塩です:画像ファイル:ラピスラズリ

藍銅鉱よりもラピスラズリ(瑠璃)のほうが、より深い紫を帯びた藍色ですね。

「ずゐぶんひどい瑠璃液」は、沖合いの藍銅色が、非常に深い色をしていることを言っています。汚いという意味合いではなく、むしろ透き通った深い藍色で、見る者の精神を侵して行くようだ──というニュアンスです。

004チモシイの穂がこんなにみぢかくなつて
005かはるがはるかぜにふかれてゐる
006(それは青いいろのピアノの鍵で
007 かはるがはる風に押されてゐる)
008あるひはみぢかい變種だらう

浜辺に茂っている禾本の描写です。

チモシー(timothy)は、長い円筒形の穂をつけるイネ科の牧草。和名は、オオアワガエリ:画像ファイル・チモシー

しかし、浜に生えている禾本は、チモシーにしては穂が短いと思ったのでしょう。

チモシーは、日本には、明治時代にアメリカから牧草として北海道に導入されたものです。しかし、日本内地でも野生化していて、スズメノテッポウやアゼスゲと似ているので、しばしば混同されます。

サハリンで賢治の見たものが、人の持ち込んだ牧草◇の野生化だったのか、チモシーに似た別の草だったのかは、分かりません。

◇(注) すでにロシア領時代から、この豊原平野では、ロシア人元流刑者の一部が、釈放後も残って牧畜をしていました。
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