ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.28


しかし、そこから、シャーマンの霊媒師的実践を、宮沢賢治が行なっていたとする想定には、疑問を持たざるを得ません。

秋枝氏のみならず、現在の賢治研究者には少なくない・こうした想定☆に対しては、ギトンは、栗谷川虹氏の↓つぎの指摘のほうに、より信頼に足るものを覚えるのです:

☆(注) 宮沢賢治は、何らかのオカルト的な実践を行なっていたという想定:秋枝美保氏・大塚常樹氏(シャーマニズム)、岡澤敏男氏(易学)、山下聖美氏・清水正氏(秘数術)、…。これは、現在の〔鑑賞史・第V期〕における宮沢賢治観の特質なのかもしれません。

「率直にいってしまえば、賢治がこれほど広く論じられていることの根底には、賢治の言葉が少しも信じられていない、そのままではまともに受け取ることができないという、これも驚くべき、かつ奇妙な理由があるのです。〔…〕

 まず、あらゆる先入観を廃して、虚心に、賢治のいわんとするところに寄り添ってみるべきです。『ほとけさんの教え』とはなにか、ではなく、賢治が『ほとけさんの教え』と呼んだものはなにか、でなくてはなりません。『修羅』にしても、『心象』にしても同じことです。
〔研究者の恣意によって、「修羅」とは何か、「心象」とは何か、を論じるのではなく、賢治作品に即して、それらの用語で賢治が言わんとしたことを探るべきである──ギトン注〕

 何よりもわたくしたちは、賢治の言葉を(それがどんなに奇怪であろうとも)素直に受け取ることから、つまり賢治を信じることからはじめるべきです。」

(栗谷川虹『宮沢賢治 異界を見た人』,1997,角川文庫,pp.4-5)

「賢治にとって童話とは、架空ではない『マコトノ世界トヒトシ』く実在した世界なのです。ところが誰もそう信じようとはしない。〔…〕

 『春と修羅』についても、同じことが言えますが、童話や詩の魅惑の背後に、ある『難解な思想』が隠されている、と考えるのです。その思想が解明されれば、作品の美しさもまた説明し得る、と。ここから人々は、作品から受ける感銘から離れて、新しい言葉の組合わせ、新奇な論理を競うことになる……。いわば〈神秘〉を、合理的な論理に置き換えようとするのです。これは最初から不可能なことです。〔…〕

 読み返すたびに、初めて読むかのような新鮮さで蘇ってくる、あの明確には言い表せないが、誰にも親しい〔…〕もうひとつの現実を垣間見せられたような感銘、〔…〕論理はこの感銘を置き去りにして、ひとりでにどこまでも発展してしまうように見えます。賢治作品は、どこまでも現実の合理主義によって処理されてしまう。賢治作品の謎、そこに描かれた奇怪な現象は、賢治の『そのとほりの記録』という明言にもかかわらず、現実の枠の中へ引きずりおろされ、現実の秩序に準じて、その論理で解かれようとしています。」

しかし、
「賢治が描いたものは、彼自身が言っているように」彼が見たままの「異空間の断片」であって、「現実のものではないとすれば、それを現実的に説明」しようなどとすれば、「あらゆる恣意が可能となるはずです。他に類のない賢治論の混乱は、まさにこのことから説明できます。」(op.cit.,pp.16-18)


【68】オホーツク挽歌 ヘ
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