ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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サハリン 氷結した間宮海峡




    【68】 オホーツク挽歌




7.6.1


「オホーツク挽歌」は、ひさびさに《初版本》収録作で、1923年8月4日付です:

. 春と修羅・初版本

001海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
002緑青(ろくせう)のとこもあれ[ば]藍銅鉱(アズライト)のとこもある
003むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠[璃]液(るりえき)だ
004チモシイの穂がこんなにみぢかくなつて
005かはるがはるかぜにふかれてゐる
006(それは青いいろのピアノの鍵で
007 かはるがはる風に押されてゐる)
008あるひはみぢかい變種だらう
009しづくのなかに朝顔が咲いてゐる
010モーニンググローリのそのグローリ

↑ここに描かれているのは、サハリン島南部、栄浜(現在の地名は、スタロドゥプスコェ☆)のオホーツク海岸です。

☆(注) スタロドゥプスコェという地名の由来は分かりませんが(ロシア語で文字通りに読めば“古い楢の木の(村?)”)、スタロドゥプカという福寿草の一種(Adonis vernalis)が、ヨーロッパからシベリア西部の草原に分布しています(↓写真)。沿海州・サハリン・北海道には、その近種のキタミフクジュソウ(Adonis amurensis)があります。アドニスという属名は、(偶然でしょうけれども)宮沢賢治と関係があるかのようで、興味深いです。

3日朝、サハリン最南端の大泊(おおどまり。現在のコルサコフ)に上陸した賢治は、まっしぐらに、当時鉄道で到達できる最北端だった栄浜に向かっています★

★(注) もっとも、1923年当時、最北端の駅は、樺太西線(西海岸、間宮海峡側)の野田でした。しかし、サハリン島を東西に横断する鉄道は、まだ無く、樺太西線と樺太東線は、繋がっていませんでした。したがって、連絡船が到着した大泊から鉄道で行ける最北端の駅は、樺太東線の栄浜だったのです。

「オホーツク挽歌」を、この章の表題としたのは、最果ての折返し点でのスケッチだからだと思います:樺太南部交通図[1923年当時] 地図:栄浜付近 古写真:栄浜駅

栄浜に到着した時刻は、鉄道ダイヤから、3日午後2時50分と午後6時20分の2通りが可能ですが、いずれにしろ、賢治は、まる3日にわたって客車(おそらく三等車。寝台車ではない)の旅をして来たので、宿を見つけて入ったあとは、倒れるように寝てしまったでしょう。

海岸を見に出かけたのは、翌日のことです。

↑上の1行目に「朝の炭酸」という語が出てきますが、あとのほうには:

. 春と修羅・初版本

076(十一時十五分、その蒼じろく光る盤面(ダイアル))

という記載がありますから、午前11時15分に栄浜の海岸にいたことになります。

そうすると、海岸に着いた時刻は、早朝ではないかもしれません。宿でゆっくりと朝食を摂ってから海岸まで歩いたとすると、着いたのは、9時か10時ころかもしれません。◇

◇(注) 栄浜駅から、貨物線の栄浜海岸駅(1923年の時点ではまだ駅でなく荷扱所)まで鉄道営業粁で1.8kmありますから、海岸は、駅のある栄浜集落から徒歩30分ほど距離と思われます。



スタロドゥプカ(Adonis vernalis)
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