ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.4.9


このように、“柳沢付近の夜の柏ばやし”は、賢治にとっては、保阪嘉内との“銀河の誓い”を思い出させる場所なのです☆

☆(注) 詩「風林」の題名ですが、残っている草稿で分かるだけでも、「夜と柏」⇒「かしはばやしの夜」⇒「風と哀傷」⇒「風林悲傷」⇒「風林」と変遷しています。

おそらく、賢治は、岩手山行のために夜間、この柏原を通るたびに、保阪との“誓いの夜”を思い出していたにちがいありません。

ですから、

20   向ふの柏木立のうしろの闇が
21   きらきらつといま顫えたのは
22   Egmont Overture にちがひない

を、亡きトシにのみ引き寄せて読むのは、やはり適当でないでしょう。

保阪とともに夢見た理想の生き方が、「エグモント」の気高い最期とともに鳴り響いているのです。

それは、裏返せば、菅原氏の言われるように、その後の賢治は法華経一辺倒に進んでしまい、一農人として現実の農村に足を踏み入れて行こうとする嘉内とは、次第に道が岐れてしまったこと、こうして

「ただ一人の友嘉内をも手放し、そして今度は、信仰に対する迷いのさなかに妹をも失う。」
(op.cit.,p.191)

という暗闇でもあるのです。






さて、だいぶ回り道をしてしまいましたが、次のフレーズに進みましょう:

. 春と修羅・初版本

25《傳さん しやつつ何枚、三枚着たの
26せいの高くひとのいい佐藤傳四郎は
27月光の反照のにぶいたそがれのなかに
28しやつのぼたんをはめながら
29きつと口をまげてわらつてゐる

「佐藤傳四郎」も、小田島國友と同級の2年生です。

山の中で足をとめてじっとしていると、どうしても寒くなります。歩いた汗で下着が濡れているから、よけいに体温を奪われるのです。夜ならなおさらです。

25行目は、賢治が、離れた場所にいる生徒に呼びかけている会話です。「反照」は照り返し。木の幹や人の姿が月光を反射して光っています。もうかなり暗くなっているのです。

賢治に声をかけられて、黙って笑っている生徒。いつものように、賢治は、生徒一人ひとりの性格をよく観察しています。

30降つてくるものはよるの微塵や風のかけら
31よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ

カシワの葉を鳴らす程度の風はあっても、穏やかな夜なのだと思います。

「夜」も「風」も形のないものですが、形のないものに形を認めるのが、賢治特有の‘知覚能力’なのです。

「夜の微塵」と「風のかけら」は、垂直にゆっくりと降りて来ます。
水平に流れる「鉛の針」──月光は、濃い灰色の針。針とは言いながら、鈍く柔らかい感じを与えます。

「鉛」は、重くて柔らかい金属で、色は亜鉛よりも黒っぽい灰青色をしています★:画像ファイル:鉛

★(注) 余談ですが、むかし西洋では、ワインの味を甘くするために酸化鉛を入れていたので、鉛中毒者が多かったそうです。ベートーヴェンの耳が聞こえなくなったのも、鉛中毒らしいです。ちなみに、現在日本でも、鉛製の水道管は2005年時点で547万世帯に残っています。
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