ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.3.3


. 春と修羅・初版本

12(おら、おかないふうしてらべ)
13何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
    〔…〕
16おまへはけなげに母に訊くのだ


☆(注) 「けなげに母に訊く」:「けなげ(健気)」とは、辞書によると、「@ 殊勝なさま。心がけがよく、しっかりしているさま。特に、年少者や力の弱い者が困難なことに立ち向かっていくさま。“一家を支えたけなげな少年”“けなげに振る舞う”A 勇ましく気丈なさま。」ここでは@の意味。トシ子は、死後の行く末に不安を感じながら、なお励ましを求めて兄の表情を追いかけ、かつ、自分の表情が気になって母に尋ねる。それはあまりにも健気でかわいそうなことだ、というのです。

トシのこの“悲痛な苦笑”は、「わたくし」の勧めに従って改宗したのに、死に際に及んで「わたくし」の確信のない態度は、そこに「わたくし」なりの・どんなせっぱ詰まった理由があろうとも、トシの側からすれば“背信”としか思えない、それゆえのトシの幻滅と自棄の表情──すくなくとも、「わたくし」には、そう思われるのです。

14またわたくしのどんなちいさな表情も
15けつして見遁さないやうにしながら

とは、改宗を勧めた「わたくし」自身が、目の前のトシの往生を確信しているのかどうか、探る視線であり、あるいは、改宗させた兄自身、この期に至ってみればまったく確信がないではないかと、非難する視線なのです。

作者は、そうした悲劇の極限──妹を見守るべき者が、逆に妹に励まされてようやく永訣(死別)の決意を固めたものの(「永訣の朝」)、その決意は脆くも動揺し(「松の針」)、ついには、妹も諦めて、“同信者”たるに価しない兄に無言の非難を向けつつ、ひとり淋しく死んでゆく──を描き出そうとしているのです。

《他者性》という、トシとの死別を体験することによって賢治が直面したものを、彼は、極限にまで拡大して描き出そうとしているのだと思います★

★(注) 《他者》とは、端的には、自分以外の人間の目である。“私”は、“私”の周りに見えるものを、「みぞれ」「ふとん」「妹」などとして自我中心的にとりまとめ、それらを見た・さまざまな体験をとりまとめて、自我を構成する。そこでは、他の人間もまた、「みぞれ」「ふとん」などと同様の“対象”、つまり物体にすぎない。ところが、他の人間は、「みぞれ」や「ふとん」とは異なって、“私”と同様に自我を持ち、“私”も含めて自分の周りのすべてのものを、“対象”として、物体として、自我中心的にとりまとめようとする。そこで、“私”と、他の人間(《他者》)との間で、自我の相克が起こる。“私”は、他人を自分の周りに中心化して、自分の自我を構成しようとするが、その他人のほうでも、同じことをしようとする。《他者性》は、“別れ”において極限に達する。なぜなら、“私”は、死別したあとの《他者》までも、感情移入し同一化して自我中心的に回収することはできないから。谷徹『これが現象学だ』,2002,講談社現代新書,pp.124f,222,232f.参照。

もちろん、賢治としては、いくら創作のためとはいっても、トシを貶めるような虚構は描けなかったにちがいありません。

悲惨さと吊りあうだけの美しさで、トシは、つややかに香しく描かれます:

19ほんたうにさうだ
20髪だつていつさうくろいし
21まるでこどもの苹果の頬だ
22どうかきれいな頬をして
23あたらしく天にうまれてくれ
24《それでもからだくさえがべ?》
25  《うんにや いつかう》
26ほんたうにそんなことはない
27かへつてここはなつののはらの
28ちいさな白い花の匂でいつぱいだから

つまり、作者は、トシと自分が属する日蓮宗の信仰の正しさには、一点の疑念もないことを前提に、それにもかかわらず、それを口に出して言うこともできず、動揺を繰り返している「わたくし」──作者の“もうひとりの自分”を描くのです:

29ただわたくしはそれをいま言へないのだ
30 (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
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