ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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【56】 マサニエロ





5.5.1


つぎの作品は「マサニエロ」です。日付は、1922年10月10日(火曜)。
《スケッチ》の場所は、第1章に何度か出ていた稗貫農学校裏の花巻城址(⇒画像ファイル:花巻城址の崖)。題名の「マサニエロ」は、南イタリアを舞台とする歌劇の主人公(ナポリ反乱の首謀者)の名前ですが、‥

まずは、この程度の予備知識で、作品そのものに向かいたいと思います。

前作「犬」と同様に、まずは虚心に読んでみるほうがよいと思いますから…

. 春と修羅・初版本

01城のすすきの波の上には
02伊太利亞製の空間がある
03そこで烏の群が踊る
04白雲母のくもの幾きれ
05 (濠と橄欖(かんらん)天蚕絨(びらうど)、杉)
06ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの
07七つの銀のすすきの穂
08(お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれてゐる、桐が)
09赤い蓼(たで)の花もうごく
10すヾめ すヾめ
11ゆつくり杉に飛んで稲にはいる
12そこはどての陰で氣流もないので
13そんなにゆつくり飛べるのだ
14 (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)
15ひとの名前をなんべんも
16風のなかで操り返してさしつかえないか
17 (もうみんな鍬や縄をもち
18  崖をおりてきていヽころだ)
19いまは鳥のないしづかなそらに
20またからすが横からはいる
21屋根は矩形で傾斜白くひかり
22こどもがふたりかけて行く
23羽織をかざしてかける日本の子供ら
24こんどは茶いろの雀どもの抛物線
25金屬製の桑のこつちを
26もひとりこどもがゆつくり行く
27蘆の穂は赤い赤い
28 (ロシヤだよ、チエホフだよ)
29はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ
30 (ロシヤだよ ロシヤだよ)
31烏がもいちど飛びあがる
32稀硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ
33お城の上のそらはこんどは支那のそら
34烏三疋杉をすべり
35四疋になつて旋轉する

この作品で、なんといっても目立つのは、15-16行目:

15ひとの名前をなんべんも
16風のなかで操り返してさしつかえないか

という2行の突出した主情性(作者の感情の表出)です。

宮沢賢治の作品では、短歌でも詩でも、主情性は珍しいので、よけいにこの2行は強い印象を与えます。

すぐ前の14行目で:

14 (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)

と、作者の心理状態を注釈していますし、

この作品全体として、さびしさに浸りきった秋の風物が並んでいますから、そのピークにある2行の主情性を高める効果は言うまでもありません。

しかし、その主情性も、日本の伝統的な詩歌の情緒☆とは、少しちがうように思われます。

☆(注) たとえば、中原中也は、宮沢賢治とは対照的に、この伝統的な情緒性を深く受け継いでいるように思われます。内容以上に、そのリズムが伝統に列なっています。ごく一例ですが:
「松の木に風が吹き、
 踏む砂利の音は寂しかった。
 暖い風が私の額を洗ひ
 思ひははるかに、なつかしかった。
   〔…〕
 あはれわれ死なんと欲す。
 あはれわれ生きむと欲す
 あはれわれ、亡びたる過去のすべてに

 涙湧く。
 み空の方より、
 風の吹く」(「心象」、『山羊の歌』より)
.
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