ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.4.4


「みふゆのひのき」連作は、推敲を施されて『歌稿A』『歌稿B』(1920年ころ成立)にも収録されています:

「窓がらす
 落つればつくる四角のうつろ
 うつろのなかの
 たそがれひのき。」
(歌稿B #437)

「くろひのき
 月光澱む雲きれに
 うかがひよりて何か企つ。」
(歌稿B #438)

「年わかき
 ひのきゆらげば日もうたひ
 碧きそらよりふれる綿ゆき。」
(歌稿B #443)

描かれたヒノキの姿は、日を追って★さまざまに推移し、#443 などは、牧歌的でさえあります。

★(注) 「みふゆのひのき」連作には、「第一日昼」から「第七日夜」「第χ日」までの小見出しがあります。

#437 は、寄宿舎の窓ガラスが割れ落ちて、窓が四角い空洞になってしまった、その四角い穴を通して、夕方のヒノキを見ています。

ルネ・マグリットの「田園の鍵(La Clef des Champs, 1936)」というシュルレアリスム絵画を連想しますが、

外の景色を映していた窓ガラスが割れると、景色の背後にある‘ほんとうの’世界──《神秘界》が見えるのでしょうか?‥

次の #438 では、夜のヒノキは、光る月を背後に蔵した雲に“うかがい寄って”、なにか邪悪な企みを実行しようとしています。

「悪事をなさんとして、すきをねらうさまに似ている。ここでは雲は弱者、あるいは善人で、ひのきが悪人を演じている。」
(『賢治短歌へ』,p.222.)

そして、連作の終り近くでは、いきなり作者自身が一人称で登場して、ヒノキに問いかけるのです:

「(ひのき、ひのき、まことになれはいきものか われとはふかきえにしあるらし。
 むかしよりいくたびめぐりあひにけん、ひのきよなれはわれをみしらず。)」
(歌稿B #446-447)

「いきなり〈われ〉を露出させ、切実に問いかけようとした〔…〕
 〔…〕ひのきよ、なんじは単なる樹木でなく、人格に類する〈格〉をもった生命存在であるか──の意味だ。〔…〕前世からの縁であり、めぐりあいである、ひのき自身はそんなことを知らない」

(『賢治短歌へ』,pp.225-226.)

以上によって、「(夜明けのひのきは心象のそら)」という短い詩句で・作者の眼に映っていた、奥深い《異世界》風景が、想像できると思います。

. 春と修羅・初版本

03(夜明けのひのきは心象のそら)
04頭を下げることは犬の常套だ
05尾をふることはこわくない
06それだのに
07なぜさう本氣に吠えるのだ
08一ぴきは灰色錫
09一ぴきの尾は茶の草穂
10うしろへまはつてうなつてゐる

駆けて来る2匹の犬には、好意が感じられません。親しみを持とうとしても、受け付けない相手です。そこで、作者も、犬たちに対して、警戒心を持って観察せざるをえません。

すでに読み取ったように、犬たちは、這いつくばって尻尾を振り、へつらいながら、隙があれば危害を加えようと狙っている油断ならない悪党のように思われます。

「なぜさう本氣に吠えるのだ」という作者の訝しみは、好意を持とうとしても持つことができない戸惑いを表しています。
やがて、12行目で:

12それは犬の中の狼のキメラがこわいのと

と言っているように、作者は、この犬たちに、ゾッと恐怖を覚えるようになります。
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