ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.3.26


つまり、「東岩手火山」において初めて登場する《他者》とは、「賢治の人格と対立し、こちらが見るばかりでなく、向こうからもこちらを見ることによって、自己を外から規定してくる『他者』」なのでした。

そして、作者は、《他者》の眼で自己をみることによって、現実の人々の眼で見られた自分の姿を客観的に認識し、現実の地平に降り立つことができるのです。

この《他者》とは、具体的には、目の前にいる4人の生徒だけでなく、彼らの背後にいて、教師・生徒という社会関係での賢治の行動を見詰めている同僚たち、親たち、役人たち、そして社会の人々なのでした。
(作者に直接《他者》として対しているのは生徒たちですが、‥この・人を神秘に傾かせる夜の山頂に賢治とともにいて、ともすれば彼の非現実意識と共謀しようとする子どもたちは、むしろ、新任の一教師にすぎない賢治に向かおうとする・現実的な《他者》の厳しい眼を、和らげる役割をしているかもしれません)

「『東岩手火山』において、賢治がそのオペラ
〔『春と修羅』という自作自演のオペラ──ギトン〕の舞台に立った時、我々は初めて、賢治という人間を明瞭に捉えることができる」(op.cit.,p.202.)



. 春と修羅・初版本
161いま火口原の中に
162一點しろく光るもの
163わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか
164私は氣圏オペラの役者です
165鉛筆のさやは光り
166速かに指の黒い影はうごき
167唇を圓くして立つてゐる私は
168たしかに氣圏オペラの役者です

「鉛筆のさや」は、鉛筆の金属製キャップ。

この「氣圏オペラの役者」というコトバは、宮沢賢治批評の中でひじょうに有名になっています。
しかし、ギトンには、この表現はかならずしも、賢治そのひとを、光踊る舞台に祭り上げるようなものとは思えないのです。

何よりもそこには、賢治の自嘲──苦い自己認識が感じられます。「氣圏オペラ」には、どこか空しい響きがあります──観客席には雲と風しか見えない舞台で、むなしく‘ひとり芝居’を演じているような。。。
さきほど、自分を「地球の華族」と呼んだ時のような高ぶりは感じられません。

火口原──観客席──から、作者を「呼んでゐる」「しろく光るもの」は、作者になおも「氣圏オペラ」を演じさせようとする‘観客’です。
その‘観客’が、現実の観客(学校劇の観客、童話、詩集の読者)として現れたとき、作者は、《見者》として生きつつ、現実の人々の間にしっかりと生活の根をおろすことができるにちがいありません。しかし、その試みが成功するか否かは、まだこれからのことがらなのです☆

☆(注) 宮沢賢治の自作学校劇上演は、@1922年3月に修学旅行から帰ってきた2年生を観客にして即興劇をやったのが最初(藤原健太郎・談)、A1922年9月末の『飢餓陣営』上演が最初(平来作・福田留吉・鈴木操六・談)、B1923年5月の花巻農学校[県立移管]開校式に『飢餓陣営』と『異稿・植物医師』を上演したのが最初、などの説があります。しかし、@は、1923年3月に『異稿・植物医師』を練習中に仮上演したのを、前の年に記憶誤りしている可能性が高い。Aは、1923.3.卒業生2名が証言。上演で主役を演じたとされる藤原健太郎の回想談とは異なりますが、Aでまちがえないでしょう。なお、@は、読売新聞盛岡支局・編『啄木・賢治・光太郎』,1976.収録の聞き書き。この本は、森荘已池氏が激賞しているように、おおぜいの証言者を発掘した功績は大きいのですが、証言者によって正確さのブレが大きいように思います。
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