ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.3.14


余談に走ってしまいましたが、本題に戻りますと、

. 春と修羅・初版本

55《じつさいこんなことは稀なのです
56わたくしはもう十何べんも來てゐますが
57こんなにしづかで
58そして暖かなことはなかつたのです
59麓の谷の底よりも
60さつきの九合の小屋よりも
61却つて暖かなくらゐです

賢治は、しきりに、こんなに暖かかったことはないと言っていますが、
逆に言うと、かつて山頂で非常に寒い思いをした思い出があるのだと思います。

「風さむき岩手のやまにわれらいま校歌をうたふ先生もうたふ」
(歌稿A,#75)

これは、中学2年生の1910年9月に《青柳教諭》とともに登った時ですが、下山時は暴風雨になっています。
山頂でも、風が強くて寒いので、力いっぱい校歌を歌って温まろうとした。新任の青柳教諭も、生徒たちに合わせて校歌を歌った‥という思い出です。

「九合の小屋」は、不動平避難小屋のことで、現在もあります。無人小屋ですから、布団も暖房器具もありませんw 風のない日なら、ほんとうに外のほうが暖いかもしれませんね‥

068御室火口の盛りあがりは
069月のあかりに照らされてゐるのか
070 それともおれたちの提灯のあかりか
071 提灯だといふのは勿体ない
072 ひわいろで暗い

《御室(おむろ)》火口の周囲は、火砕噴出物で盛り上がっています:画像ファイル・岩手山 ←航空写真で見ると、真っ白く見えます。
近くから撮した写真でも、外輪山(御鉢)よりはずっと白いです。

作者が、いま訝しんでいるのは、この「御室火口の盛りあがり」が、闇夜の暗黒の中に、しらじらと光っているからです。賢治は、科学者らしく(科学者・現実家の意識で)まず光源を考えます:月の光に照らされているのか?‥それとも、生徒たちの提灯の明かりが照らすのか?

真っ暗なカルデラの中で、そこだけ浮き出るようにぼっと輝く白い映像は、神秘の想いをかきたてるかのようです。
賢治が、この「盛り上がり」の白さにこだわっているのも、
じつは“異界を見る眼”に見えているのではないか──という疑いをぬぐえないからなのです。

しかし、それは“幻視”ではなく、生徒たちにも見えているのでした。
少し先で:

094向ふの白いのですか
095雪ぢやありません
096けれども行つてごらんなさい
   〔…〕
127《雪ですか、雪ぢやないでせう》

などと、生徒の質問に答えています。

071 提灯だといふのは勿体ない
072 ひわいろで暗い

「ひわいろ」は薄い黄緑色:画像ファイル:ひわいろ

暗い「ひわいろ」の提灯(ちょうちん)の明かりが恥ずかしいくらい、御室から妙高岳へ盛り上がった斜面は、神々しく真っ白に輝いているのです。

ここでは、賢治の心眼は、“異界を見る眼”から、さらに宗教的な意識へ傾こうとさえしているようです。提灯の明かりなどでは「勿体ない」と言うのは、火口の輝きを、畏れ多い聖なるものと見る意識でしょう。

しかし、生徒たちは(子どもは、あるいみ現実的なものです)、そのようなことは考えません。“白いから雪だろう”と、まず考えます。賢治も、生徒とのやりとりの中で、“幻視”へと傾いてゆくのをとどめられ、現実意識を保持するのです。
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