ゆらぐ蜉蝣文字
□第4章 グランド電柱
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4.14.12
なお、春の「鴇いろ」の火──は、散文『若い木霊』☆にも、つぎのように描かれています:
☆(注) 『若い木霊』の草稿は、複雑な成立経過をたどっていますが、結論的に、1921-22年ころの成立と思われます。
. 若い木霊(こだま)
「一疋の蟇[ひきがへる]がそこをのそのそ這って居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。
それは早くもその蟇の語[ことば]を聞いたからです。
『鴾[とき]の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧くはないんだ。
桃色のペラペラの寒天でできてゐるんだ。いゝ天気だ。
ぽかぽかするなあ。』
〔…〕
その窪地はふくふくした苔に覆はれ、所々やさしいかたくりの花が咲いてゐました。〔…〕そのつやつやした緑色の葉の上に次々せわしくあらはれて又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました。
『はるだ、はるだ、はるの日がきた、』字は一つづゝ生きて息をついて、消えてはあらはれ、あらはれては又消えました。
『そらでも、つちでも、くさのうへでもいちめんいちめん、もゝいろの火がもえてゐる。』
〔…〕そこには桜草がいちめん咲いてその中から桃色のかげらふのやうな火がゆらゆらゆらゆら燃えてのぼって居りました。そのほのほはすきとほってあかるくほんたうに呑みたいくらゐでした。
若い木霊はしばらくそのまはりをぐるぐる走ってゐましたがたうたう
『ホウ、行くぞ。』と叫んでそのほのほの中に飛び込みました。
そして思はず眼をこすりました。そこは全くさっき蟇がつぶやい[た]やうな景色でした。ペラペラの桃色の寒天で空が張られまっ青な柔らかな草がいちめんでその処々にあやしい赤や白のぶちぶちの大きな花が咲いてゐました。」
. 春と修羅・初版本
06鴇(とき)いろのはるの樹液を
07アルペン農の辛酸に投げ
08生(せい)しののめの草いろの火を
09高原の風とひかりにさヽげ
「アルペン農」と言うと、高原の山村のようですが、原体村は、北上川岸に近い標高50〜80mの場所ですから、高原とは言えません。
「アルペン」は、“アルペン踊り”“アルペン・ルート”など、ほとんど日本語の単語の一部になっていますが、もとは:
Alpen[独語]【固有名詞】アルプス
alpine[英語]【形容詞】アルプスの、高山性の
あたりから来た外来語です。
「アルペン農」──つまり、高山の農民──は、賢治の脚色です。あるいは、種山高原などで出会った山村の人々を、だぶらせているのかもしれません。
ここに描かれているのは、単なる少年の性の横溢ではなく、
子供もおとなといっしょになって働かなければならない山村の厳しい生活条件の中で、季節の草木の生理活動といっしょに躍動する子供たちの生の息吹きなのです。
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