ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
58ページ/88ページ


4.14.7


しかし、そうすると、『春と修羅』《初版本》の「1922.8.31.」という日付は、どうなるのでしょうか?

このころ、賢治は再び原体へ出かけて剣舞を見ているのでしょうか?

まず、月齢を見ますと、1922年8月31日は月齢8.6で、上弦の月です:1922年8月31日の夜空

つまり、詩「原体剣舞連」の:

. 春と修羅・初版本

「こんや異装のげん月のした」

は、1922年8月31日の月齢とも合っていることになります。

「年譜」には、1922年8月31日付近には、ほかの行動の記載が無く、8月中は農学校も夏期休暇でしょうから、31日頃に江刺郡原体まで行っても、おかしくはないのです。

以上から、『春と修羅』の詩「原体剣舞連」については:

@ 1917年の地質調査の帰り道、9月7日ころ原体で見た剣舞の印象を思い出して、1922年8月31日に詩をまとめた。

A 1922年8月31日、原体を再訪して剣舞を観覧し、その後、スケッチをまとめ“モディファイ”して詩にした。

という2つの可能性があることになりますが、

どちらかといえば、Aのほうが可能性が高いかもしれません☆

☆(注) いまネットを見ますと、“宮沢賢治は1922年8月30-31日に種山ヶ原方面に地質調査に行き、その帰途に原体の剣舞を見た”と書いている人が多いのです。しかし、その“1922年の地質調査”は年譜にもありませんし、ほかに根拠となる資料も見当たりません。宮澤賢治は、1918年に稗貫郡土性調査を終えた後は、公の委託による計画的な地質調査・土性調査を行なった形跡はありません。農学校教師をしていた1922-26年の期間には、生徒向けの教材にする目的での個人的(なかば趣味的)な調査行以外は行なわなかったはずです。“1922年8月の地質調査”は、読者による・根拠の無い空想ではないでしょうか?? 1922年8月31日は、『春と修羅』の作品日付だけが根拠だとすれば、端的に、“原体へ剣舞を見に行った”と推定すべきではないでしょうか?

   ◇◆◇1917年の“剣舞”短歌群◆◇◆

以上によって、作品の時と場所、そして対象の「剣舞連」については、ひととおりのイメージが湧いてきたことと思いますので、作品に入りたいと思います。

まず、1917年の短歌群を検討します。

「上伊手剣舞」から‥

 

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ