ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.13.3


↓腕木を連ねて立つ2本の電信柱が、二人の間で意見交換の役割をしたのと同じことが、“2本の樹木”にもあったのではないかと思われるのです:

「よりそひて赤きうでぎをつらねたる青草山の電しむばしら」
(『アザリア』第3号、宮沢賢治)

「落ちかゝる そらのしたとて 電信のはしらよりそふ 青山のせな」
(op.cit.)

「夕闇のデンシンバシラへだたりてひろ野の雪と二人の若者」
(日記、1917.12.31., 保阪嘉内)

「雪の夜の電信バシラのおののきにふるひて吠える犬がありたり」
(『アザリア』第5号、保阪嘉内)

「天然誘接」の最初の2行は、“この詩は、きみにだけ読んでほしいのだ”という賢治の嘉内へのメッセージではないかと思うのです:

. 春と修羅・初版本

01 北齋のはんのきの下で
02 黄の風車まはるまはる

「黄の風車まはる‥」は、何か狂気じみたものを含んでもいます。

この感じは、1923年9月の「雲とはんのき」では、もっと明からさまに:

「赤紙をはられた火薬庫だ
 あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる」

 

と表現されているのです☆

☆(注) 前作「電車」で取り上げた「風景とオルゴール」「昴」も、そうでしたが、第8章(1923年8月〜12月)には、この第4章の作品のテーマやモチーフを、あらためて取りあげたものが、いくつかあります。

この“狂気”には、共通の理想に賭けた友情・愛情の破綻に堪えられず、どうしても“訣別”することができない賢治側の思いが、あふれるほどに現れています。

そして、この詩篇、またそのほかの『春と修羅』収録のいくつかの詩篇は、菅原氏の指摘する“嘉内を取戻す道”★として発信されたものと見られるのです。。。

★(注) 「賢治にとって小岩井駅から農場までの道のりを歩きながら心象をスケッチしていったのは嘉内を追い、嘉内を自分の中にとり戻すための道でありそして自分の歩く道、つまり、本部へ到る真実の道の確認のためでもあった」(『宮沢賢治の青春』,p.178) 賢治は、単に“自分の心の中で取戻す”だけではなく、嘉内に対して、この詩集の形のメッセージを送り、現実に“取戻す”ことを願っていたのだと思います。しかし、それには、まず“自分の歩くべき道”を見出し、相手から“乳離れ”するという迂路をたどることが必要なのです。なお、賢治は、【初版本】発行後、じっさいに1冊を嘉内に送り(その現物は嘉内の子息に伝えられ、現在は韮崎市資料館にあります)、その後の手紙に「童話の本さしあげましたでせうか」と書いて(保阪嘉内宛 1925.6.25.,#207)、暗に詩集の感想を求めています。
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