ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.8.2


この詩については、

“岩手山”に喩えて、なにかを風刺しているのではないかとか、父親の権威を批判しているのではないかとか、うがった解釈をする人が多いようです。多くの人の常識にある岩手山の像とはあまりに違うために、そのように読まれてしまうのかもしれません。

しかし、ギトンは、この詩は、風景のスケッチとして素直に読めばよいのだと思っています。

むしろ、ふだん見馴れた岩手山も、実は、さまざまなパースペクティヴ☆を見せているのだ──ということに気づいた詩人の眼を、見落としてはならないと思うのです。

ふつうの人なら見落として‥忘れてしまうような姿も、しっかりととらえ、記憶し、──ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ──私たちに遺してくれた賢治に感謝したいと思います。

☆(注) ある存在者(das Erscheinende)について、私たちの日常意識にある先入見を捨てて、そのさまざまなパースペクティヴ(Erscheinungen)を忠実にたどって行くことは、《現象学》の実践である《心象スケッチ》における重要な方法の一つです。

ときには「古ぼけて黒くえぐるもの」であり、ときには「きたなくしろく澱むもの」であるという、さまざまな面を加えて行くことによって、
啄木が「ありがたきかな」と詠った岩手山の像は、さらに奥行きの深いものとなるのではないでしょうか。

そして、もし、この景観に畳み込まれた作者の思いを掘り下げて想像するのであれば、

明るい風景の底に、澱りのように沈み込んでゆく青年教師の惑いと愁いをこそ、読み取るべきではないでしょうか?


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